夢を見た。
 私と彼はダイニングテーブルを囲んで、彼は彼の特等席に、私は私のいつもの場所に向かい合って座り、お皿にはポトフや、私が手ずから焼き、手ずからぺしゃんこにしてしまったはずのショートケーキワンホール、パーティー仕様の手料理の数々が、彩りも鮮やかに盛りつけられている。お皿はクリスマスにちなんだ柄の、今日この日のために用意した特別なものだ。細長いグラスには金色のシャンパンがなみなみとつがれ、炭酸のきめ細やかな気泡をしゅわしゅわと淡く吐き出している。彼と私はグラスを持ち上げ、カツンとぶつけ合い、一枚の絵画のように完璧な乾杯をする。けれどその音は、私の鼓膜に届かない。何故だろう、私は不思議に思うけれど、世界は金色のシャンパングラス越しに見ているように朧げで、儚くて、炭酸の気泡のように今にも消え入りそうでもあり、私は舞台上で繰り広げられる一幕を客席から俯瞰する傍観者でしかなく、その一線を踏み越えて、疑問を深追いする気にはならない。
 乾杯が済み、最初のひとくちを交わし終えると、彼と私は銀色の食器で丁寧に料理を切り分けて口に運び、そうしながらしきりにおしゃべりをはじめる。シャンパングラス越しの私には、二人が何を話しているのかまでは聞き取ることができない。だけどきっとそれは他愛もない会話で、私たちは昨日までと同じように、楽しそうに、幸せそうに、笑い合っている。まさしく理想の、私が思い描いていた通りの筋書きの、クリスマス・イブだ。
 なんだ、やっぱり彼はちゃんとここにいるんじゃないか、と私はほっと安堵する。やっぱりさっきの出来事や、彼の冷えきった言葉は全部夢で──だって、ありえないもの──私と彼の交際は完璧で、他の何者も付け入る隙もなく、私たちは途方もなく愛し合っている。それは紛れもない真実で、疑いようがあるはずもない。
 その時だった。私は私の世界ににわかに音が戻ってくるのを感じた。シャンパングラス越しだった世界が、くっきりと輪郭を際立たせはじめる。彼の表情の微かな違和感に、私は気がつく。優しい目元で微笑んだ彼の、幾度となく私にキスを落とした唇が、ゆっくりと捻じ曲がって、怪物のように歪み、言葉を──言わないで、と私は本能的に、祈るように思う──私が最も恐れていた言葉を紡ぐ。
「お前なんか、ごみ箱に、ポイ!」
 ──暗転。

 目が覚めると、お昼の十二時を回っていた。
 私はぼんやりとした頭でソファーから身を起こし、辺りの様子を見渡した。
 シンクには、昨日の破壊を免れた食器が、濁り、淀んだ水に浸かり、生ごみと化したぐちゃぐちゃの料理とケーキが、スーパーのビニール袋の中で、吐瀉物のように醜く入り混じっているのが薄く透けて見えた。汚れた床や壁は、大家さんと一緒に雑巾で拭ったはずだったけれど、まだ酷くべたついていそうだったし、壁紙にはいくらこすってもそれだけは落ちなかったポトフのしみが、昨日の悪夢が現実であることをありありと物語るかのように、不規則な模様をくっきりと描いていた。
 そしてやっぱり部屋に彼はいなかった。開きっぱなしのバッグの中で、携帯がぴかりと点滅するのが目に入り、なにげなく中を開くと、会社から何度も電話が入っていた。出勤するべきはずの時間はとうに過ぎているのだから、それは当然のことだった。私はがっかりして、携帯を閉じた。もしかしたら、彼から何かしらの連絡が入っているのではないかと、私は淡い期待をしていたのだ。例えそれがどんな内容のものであったとしても、今の私は藁にも縋る思いで、それにしがみついていたに違いない。
 親しい同僚や上司から、私の身の安否を気遣うメールも何件か入っていた。私はこれまで一度として、遅刻も早退も欠勤もしたことがなかった。私はいつだって、毅然と背筋が伸びていて、優秀で、非の打ち所のない人材だと、誰もが一目置いていた。私もそのことはちゃんとわかっていて、人が私に対してそうあるようにと望む姿でいられるように、常に心がけてきた。結果、私は若くして会社でそれなりの地位にまで昇り詰め、周囲からの厚い人望も得た。
 会社に電話をかけ直す気にはなれなかった。半日以上も寝たというのに、体中が泥にまみれているかのように重かった。そういえば、シャワーを浴びていなかったことを、私は思い出した。汗と汚れにまみれた体が、酷く気持ち悪かった。
 ふと、昨日ポトフを煮立てていたアルマイト鍋が、床の上に無造作に転がっていることに、私は気がついた。それだけは、大家さんも私も拾い上げることをせず、昨日私が中身をぶちまけ、激情に任せて床に叩きつけて、それっきりになっていた。叩きつけた弾みで、その鍋だけは少し離れたところまで転がっていってしまい、二人とも鍋が床に放りっぱなしになっていることに気がつかなかったのだ。
 その瞬間、私の脳天からつま先まで、全身を電流が駆け巡ったような気がした。天から落ちてきた稲妻のような衝撃だった。私はソファーから転がり落ち、何かに取り憑かれたかのように四つん這いに這いずって、アルマイト鍋に近づいた。まるでこの世界に私とアルマイト鍋、二人っきりになってしまったようだった。全てがスローモーションのようになって、網膜に鮮烈な残像を灼きつける。震える手を伸ばし、そっと美しい、均整の取れた曲線をなぞる。レースのカーテン越しに、午後の淡い陽射しを受けて、それは一層美しく、柔らかな飴色に光っている。昨日私が叩きつけた衝撃で、鍋は底部のカドがぺこんと少しへこんでしまっている。
 私はそのくぼみに、そっと指を這わせた。彼のぬくもりが、まだそこに深々と、刻み込まれているような気がした。