会社に行けなくなった。鍋を持って、電車に乗るところまでは行けたとしても、汚れた鍋を後生大事に抱えて仕事をするわけにはいかなかった。不潔な女だと思われたくなかった。そう思うだけの理性はまだ残っていた。
 あのあと、彼と入れ替わりに、騒ぎを聞きつけた大家さんがやってきた。大家さんの部屋は一階の片隅にあり、私の部屋は三階の対角に位置していたから、私は泣き叫んだり、喚いたりは微塵もしなかったけれど、鍋や食器の類が床や壁に叩きつけられ粉々に砕け散る音は、三階建てのアパートの、隅々にまで響き渡っていたに違いなかった。大家さんは部屋の惨状を見ると仰天して、あたふたと警察に通報しようとしはじめたので、私はこんな時だというのに、これはただの痴話喧嘩によるもので、断じて警察を呼ぶような話ではないのだと、必死に弁明しなければならなかった。面倒事は極力避けて通りたかったし、警察沙汰なんてもってのほかだった。もっとも、本音を言えば私の中では〝ただの痴話喧嘩〟で済むような話では全くなかったのだけれど、大家さんにわかって貰うためには、そう説明するのが一番手っ取り早いと考えたのだ。自分でも拍子抜けするほど、私はこの事態を冷静に俯瞰することができていた。
 幸い、大家さんは彼の顔を知っていたし、私は常日頃から大家さんとそれなりに親しくしていたので、彼女は些か訝しげな顔はしたものの——部屋は地震か、強盗にでも遭ったような荒れ様だったから、大家さんが訝しむのも無理ないことだった——どうにか納得して貰うことができた。
 ただし、見逃すのは今回限り、という条件つきで。アパートの住人にこうも大層な騒音を立てられては、大家さんとしても、いろいろと不都合なことがあるのだろう。大家さんや、近隣の住民には誠に申し訳ないことをした、と私は実に肩身の狭い思いをし、何度も何度も大家さんに頭を下げて謝った。
 そればかりか大家さんは、この惨状を一人でどうこうするのは大変だろうと、部屋の掃除の手伝いまで買って出てくれた。私は大層恐縮し、もういい時間ですし、せっかくのクリスマス・イブなんですから、大家さんもご家族とゆっくり過ごされて下さい、というようなことを言って、何度も彼女を説き伏せようとしたけれど、大家さんは勝手知ったる、といった雰囲気で部屋の中に上がり込み、葉子ちゃんは休んでていいから、と部屋中に散らばったものをせっせと拾い集めはじめてしまった。そうまでされては私もじっとしているわけにはいかず、泥のように重たい体を仕方なしに引きずって、大家さんと二人して部屋の掃除に取りかかった。この部屋の有様とはまるで無関係の大家さん一人が働いているのを、張本人である私が黙って見過ごすわけにはいかなかった。
 なんて滑稽なんだろう、と私は思った。私が私の意思で破壊した断片や残飯を、私はもう、自らの手でせっせと掃いて捨てる羽目になっている。
「でもねえ、気をつけなくっちゃ駄目よ。最近の若い人って、普段おとなしくても何するかわからないから。現にほら、この有様でしょう。まさか、あのコウちゃんがねえ。さっき玄関ですれ違った時、物凄い顔してたわよ、顔色なんてもう、蒼白いを通り越して緑色になっちゃって。おばちゃん、ちょっと怖くなっちゃったわ」
「いえ、これは全部、私がやったんです」
 例え大家さんがどんなに気のいい人であったとしても、謂れのない罪を彼に着せる権利などありはしないと、少し気を悪くしつつも私が正直にそう白状すると、大家さんは物凄く複雑そうな顔をして、幾度か目を瞬かせ、あからさまに視線を泳がせると、それでもどうにかその場凌ぎの言葉を取り繕った。
「女の人はいいのよ、たまには、ほら——いろいろあるんだから」
 いろいろって、例えば何だろう、と私はぼんやり考えた。どうして女の人にはそれが許されて、男の人には許されないのかということも。そのどれもに、私は答えを見出すことができなかった。
 それきり私たちはなんとなく気まずくなって、無言で部屋を片付けることに専念した。大家さんは、一刻も早く私の部屋を片付けてしまって、この忌まわしい出来事を自分の中から拭い去ってしまいたくて仕方がないように見えた。だったらこんなくだらないことの手伝いなんか放り出して、さっさとここから逃げ出してしまえばいいのに、と思わないでもなかったけれど、口には出さずに胸の内に秘めて押し留めておいた。これ以上、手伝う、手伝わないの押し問答に神経を費やしたくはなかった。余計なお喋りをしたくなかったし、それよりもさっさと部屋を片付けて、一人になってしまう方が手っ取り早いように思えた。
 部屋があらかた片付いてしまうと、大家さんはそそくさと、それでも上っ面だけは愛想よく、私の心身を気遣う素振りを見せながら、私の住むアパートの一室をあとにした。なんとか口角を持ち上げて笑顔らしきものを作り、大家さんの姿が玄関ドアの向こうに消えるのを見届けると、急にどっと疲れが押し寄せた。
 私はふらつく足取りでリビングに戻り、ソファーに倒れ臥した。ゴブラン張りのソファーは、就職して最初のお給料で、私が大奮発して買ったもので、彼もお気に入りの一品だった。このソファーで、よく二人並んで座って、流行りのテレビドラマなんかを見たものだった。私たちは時にはここでセックスもした。そんな遠い記憶を思い起こしながら、私の意識は薄れていった。汗にしとばんだ体を流すことも、破壊を免れた食器を洗うことも、今は億劫だった。そうして私は深い眠りの淵に沈んだ。