アルマイトの海で眠る

 おおよそ一年と四ヶ月もの間、彼と私はいつ、どんな時でも一緒だった。買い物に出かける時も、お風呂に入る時も、トイレに座って鍵をかける時でさえ、傍らにはいつも彼がいた。彼と、少しの食事さえあれば、私は多くを必要としなかった。彼のくぼみに指を這わせる時、私は他の何物にも代えがたい幸福を得た。私と彼は実に慎ましく、私たちだけが知るルールの中で、ひっそりと、美しく暮らした。他の誰からも理解されずとも、私たちは幸せだった。
 私の彼は鍋で、鍋というのは勿論、料理に使うあの金物の鍋で、かつて彼は人間だったのだけれど、今は確かにその鍋が、私の恋人なのだった。鍋は何の変哲もない、昔ながらの、飴色のアルミ鍋だった。黒いプラスチックの取っ手が二つついていて、アパートでの一人暮らしにふさわしく小振りな、どこにでも売っている形状のものだった。一つ隣の駅の、垢抜けないホームセンターで見かけるものと比べても、何一つとして変わったところがあるわけでもなかったけれど、水飴を薄めて、弱火でとろかしたようなその色を、私は心の底から愛していた。
 アルミホイルも一年玉も、世の中に出回っているアルミ製のものというのは往々にして、軽さに似つかわしい安っぽい銀色をしているというのに、この種の鍋だけは何故こんなにも悩ましげな色をしているのか、私は長年疑問に思い続けてきた。それはアルマイト加工というものなのだと、大学で電気工学を学び、今は電機工業会社の技術職として働く、彼が言った。
 人間の彼が剥離した日、私はそのアルマイト鍋でポトフを作っていた。冬の寒い日で、私たちが付き合って五年の記念日であり、世間に渦巻く諸々の陰謀によって恋人たちの日として仕立て上げられてしまった、クリスマス・イブでもあった。だからといって互いに仕事を休めるわけでもなく、私と人間の彼は、私の住むアパートの一室で晩ご飯を一緒に食べて、手作りのケーキでささやかなお祝いをする手筈になっていた。
 その日、私は仕事を早くに切り上げてくることができたし、仕事の疲れすらまっさらに吹き飛ぶほどに彼との夜を楽しみにしていたし、勿論彼のことをとても愛していたし、当然ながら彼と結婚して家庭を築くことになるだろうとも考えていたし、ケーキは既に冷蔵庫で彼の帰りを待つばかりで、ポトフの味付けも上々、とにかく全てが滞りなく予定調和を保っており、私は一枚の、完璧な絵画のように幸福で、満ち足りていた。私は私をこの世で最も幸福な女だと、信じて一ミリも疑わなかった。
 来客を知らせるチャイムが鳴って、玄関で彼を出迎えた時、彼の様子がいつもとほんのわずか異なっていることに、私はすぐに気がついた。その刹那、不吉な予感がさっきナフキンで磨いたばかりのケーキナイフのようにキラリと閃くのを私は感じたけれど、すぐに気のせいだろうと思い直して笑顔を繕い、なるべくいつもと変わらないふうを装って、
「お帰りなさい」
 と言った。私のかけた言葉に、彼は一瞬視線を上げただけで、すぐにまた逃げるように目を伏せて、
「ただいま」
 と、ほとんど聞き取れないくらいの小声で答えただけだった。彼の返事があったことに、私はひとまず安堵した。くたびれて、広い肩がいつもよりひと回りもふた回りも小さく見えた。
 仕事で、何かあったのかもしれない、と私はこっそり考えた。そんなことでもなければ、こんなにもしおれきった彼の様子に、理由をつけることなど到底できはしなかった。絵画のように幸福で素晴らしい私たちの記念日に、ひびの一つも入るようなことがあってはならなかった。
「お腹、すいてるでしょう。ご飯、できてるよ」
 ともあれ、まずはお腹をすかせて帰ってきたであろう彼に、食事を出してから話を聞くことにしようと、私は彼の手を引いて、リビングへと導いた。
 彼は私が知るどんな男性よりもストイックで、シンプルな人だった。身につけるものはいつだって外連味がなく、防寒と言えばコート一枚、手袋もしないような人だったから、その手は外気に晒されて、すっかり温度を失っていた。
 そんな頓着のなさも、私は好ましく思っていた。手を引かれている間中、彼は黙って、私の後ろを大きな子供のように付き従って歩いた。
「ちょうどポトフがいい頃合いなの。今よそうから、先に座って待ってて」
 彼がいつもかけて座る席の前まで大きな体を引っ張ってくると、私は急いでキッチンに回り、煮立っているポトフの火を消した。そうしてお膳立てをしてみても、彼が椅子に座る素振りはなかった。押し黙って、私が手を引いて連れて来たそのままの場所から微動だにせず、張り詰めた眼球を鏡のように見開いて、彼の特等席を凝視していた。私は、それ以上彼に言葉をかけるのは食事の支度をすっかり整えてしまってからにしようと決めて、おとなしく口を噤み、お揃いの深皿に、彼と私の分のポトフをおたまでよそった。
「別れよう」
 その日、リビングに入ってきてからはじめての言葉を彼が発したのと、立ち尽くしている彼の前にポトフの深皿を私がコトリと置いたのは、同時だった。
「え?」
 あんまりにも突然のことだったから、私ははじめ彼が何を言っているのかわからなかった。
「別れよう」
 今まさに、私が置いたばかりのポトフに視線を落としたまま、彼はもう一度、同じ言葉を繰り返した。まるで、ポトフに別れを告げているみたいに。本当にそうだったら、どんなによかったことだろうか。
「……いやだ」
 そんなつもりはなかったのに、声が震えた。今度は私がポトフのお皿に視線を落とす番だった。
「なんでよ、」
 私は彼を問い詰めた。わけがわからなかった。今日はクリスマス・イブだから、今頃はそれぞれのホームや街やホテルで、心ゆくまで楽しくロマンチックなひと時を過ごしているに違いない世界中の恋人たちが、突然業火の如く呪わしく、憎らしく思えて、世界一幸福だったついさっきまでの私はくしゃくしゃのごみくずのようになり、私は愛した男に今まさに捨てられる、惨めな女になり果てようとしていた。
「きみを好きじゃなくなったんだ」
 彼の語調は、意味を持たない数字の羅列をなぞるように淡白で、そして残酷だった。私は狼狽えた。唐突に目の前に突きつけられた受け入れがたい事実に、愕然としていた。
「そんな、急な話……どうしてなの」
「急にじゃない」
 私ははっと顔を上げた。彼はいつのまにか、犬のようにかなしい瞳で私を見つめていた。
「急にじゃないよ」
 ——だとしたら、一体彼はいつから、その言葉について、考えていたのだろう。
 私は無言でテーブルから離れ、キッチンに回り込んだ。コンロの上の、きれいな煮え色をしているポトフの入ったアルマイト鍋の黒い二つの取っ手を、何の躊躇もなくむんずと掴んだ。内側からすっかり熱を孕んだ取っ手は、私の掌の肉をチリチリと焼いたけれど、そんなことを気にしている余裕もなかった。私はアルマイト鍋をダイニングまで運んでくると、中のスープがまだ熱いのも構わず、中身を辺り一面に思いきりぶちまけた。ポトフは私の足元と、壁紙と、彼のお腹の辺りにしみを作り、彼はそれがとても熱いということにも気づかぬくらいに呆然となって、目前で、静かに豹変した私を見つめていた。部屋に上がってからずっと、ろくすっぽ視線を合わせようとはしてくれなかった彼の眼差しが、私ただ一人に釘付けになっていることに、私はこの上ない愉悦を覚えた。
 ポトフは彼の大好物だった。彼の大好物だから、今日という日に私はポトフを煮立てて、彼の帰りを心待ちにしていたのだ。何も間違っていないはずだった。一体どこで、何を誤って、今、この状況に置かれているのか、私にはまるでわからなかった。出会った瞬間から、今日、彼が私の住むアパートの一室を訪れるまで、私たちは何一つ過ちを犯すこともなく、曇りや霞の一つさえない、完璧な交際をしてきたはずだった。
 他の料理も、冷蔵庫に入っていたケーキも私は取り出して、皿ごと床に叩き付けた。皿は粉々に砕け散って、うそのように白いホイップクリームが、黄色いスポンジや赤い苺といっしょに潰れて無惨な姿を晒した。このまま私が、砕け散る皿といっしょに壊れてしまえば、彼を引き止められるのではないかと思った。無論、そんなことには何の意味もなく、それどころか逆効果だということも、心のどこかではわかっていた。それでも私は衝動を抑えることができなかった。私がこれまで生きてきた二十三年分の抑圧、我慢してきたこと、表に出さないようにと努めてきたこと、すべてのたがが一気に吹き飛んで、外れてしまったようだった。私は私の醜く腐蝕した中身、セックスの時でさえ見せたことのない熟れた肉を、柘榴のように彼の前にさらけ出していた。みじめで、滑稽で、腹立たしく、何よりもかなしくてたまらなかった。今この瞬間よりもかなしいという感情を、私は他に知らなかった。どうにかして一秒でも長く、彼の気を私に引きつけていたくて、そのためになら私はなりふり構わなかった。
 私が一通り、目についたありとあらゆるものを投げ、ぶち壊し、部屋中をめちゃめちゃにして、もうこれ以上壊せるものが手近に何もなくなってしまっても、一度突き動きはじめてしまった衝動は、収まるところを知らないように思えた。肩で喘ぐように息をつき、惨状のさなかに棒立ちに立ち尽くしている彼にふと目をやって、頭から冷水を浴びせられたような気がした。熟するのを通り越して膨れ上がり、爛れかけていた私の柘榴は、急速にひからびて、萎んでいった。
 彼の顔面は蒼白だった。怒りのためか、恐怖のためか、あるいは全く別の感情のためか、それは定かではなかったけれど、ともかくその顔は蒼褪めて、何か得体の知れないものを見る目で、私を凝視していた。その瞬間、私は本当に、全てが終わってしまったことを悟った。大きな体がぐらりと傾ぎ、彼は何も言わず、ふらふらと私の部屋をあとにした。
 私は彼を引き止めなかった。心の内では、いやだ、いかないで、とみっともなく縋りついてしまいたかったけれど、もはや私にその資格が残されていないことは明らかだった。彼と出会ってからはじめて、私は明白に〝過ちを犯した〟——私は最後まで泣きも喚きもせず、ただ静かに壊れ、果てた。
 それが私たちの終わりで、はじまりだった。