ロッカールーム・パラレル

 週に、三日か四日。とある雑居ビルの三階にあるコンタクトレンズショップに併設された、眼科とは名ばかりの小さな医院に勤める、あたしはフリーターだ。その眼科のアルバイトも、もうすぐやめると決めた。理由は簡単。そこに勤める人たちが、嫌いだったからだ。
 面接を受けて、採用されて、はじめて勤務に入った数日後には、もうあたしにとって彼らは取るに足らない存在となっていた。なんてつまらない人たちなんだろうと、あたしは内心で彼らのことを馬鹿にした。一人になるのが嫌だから、怖いから、群れることそのものを目的に群れている。そこにいるのはそんな人たちばかりだった。あたしに言わせれば、そんなことは実にくだらない。どう足掻いたところで、人間は天涯孤独なのである。それでも一年半は働いたのだし、辞める一ヶ月以上前にはきちんと申し出たのだから、ちょっとばかし胸の内で毒づくくらいのことは、大目に見てほしい。
 他とは一風違ったあたしは、彼らからしてもまた、はた迷惑で、扱いがたい存在であったに違いない。バイト帰りに、彼らはしばしば連れ立って、晩ごはんや居酒屋に立ち寄っていたようだけれど、あたしが誘われたことは一度としてなかったし、先輩の内の一人が結婚した時も、声がかからなかったのはあたしともう一人、視力検査員の地味な男の人だけだった。女子ロッカールームで、みんなが華やかなパーティードレスに着替えていく中、あたし一人が気の抜けた私服に着替えて、いつも通りの帰路についた。
 別に、なんとも思わなかった。嫌いな人たちのために、無駄なお金と、時間と、労力を費やさずに済んだのだから、むしろありがたく思える程だった。どうせあたしが行ったところで場を白けさせてしまうだけだし、彼らはあたしにとって、道端に落ちている石ころと同じくらいに無価値で、無意義な存在だった。
 そしてまた、一年半の眼科勤めによって、あたしは小規模な診療所というものへの信頼を完全に失ってしまっていた。
 なんといっても、院長の名を冠する医者が眼科の専門医ではないというのだから、大したヤブっぷりだった。とはいえ週に一度、ちゃんとした専門医が来る日を設けているだけまだましで、もっと悪いのは代診の先生の日だった。何しろこんな胡散臭い小医院に回されて来るだけあって、ろくな医者がいない。ことに火曜日にやってくる太った医者は最悪だった。彼は体中にでっぷりとした脂肪の塊を蓄え、肉でぱんぱんに膨れ上がった手で、乱暴に患者のまぶたをつまみ上げた。あまりに太っているものだから、椅子に大きなお尻がはまって抜け出せなくなってしまった時など、笑いを堪えるのが大変だった。暑くもないのにいつも汗を掻いていて、EKCイーケーシーの疑い——日本語で言うと、リュウコウセイカクケツマクエンノウタガイ。ウィルス性の急性結膜炎で、プールなんかで感染する、ちょっと嫌なやつだ——のある患者さんを診たあとでも、ろくに手指の消毒をしないので、素人であるこちらが眉をひそめてしまう程だった。
 院長と同様に、太った医者も眼科の専門医ではなかった。やはり病院は、たとえ待ち時間が長かったとしても、ちゃんと専門医がいて、設備もきちんと整った、真っ当なところに行くに限る。
 あたしが辞めることが決まると、すぐさま大々的な人員募集が始まった。医療事務というのはどうやらそこそこに人気のあるアルバイトのようで、あたしが辞めることによってできるたった一人の枠を巡って、熾烈な履歴書競争が始まった。こんなくだらない仕事のために。こんなつまらない人たちのところに。
 バカみたい、とあたしは思う。
 バカみたい、それはあたし自身に向けての言葉でもある。
 送られてきた履歴書は、あたしたちアルバイトの分際でも容易に見ることができた。先輩たちは興味津々で履歴書の束に齧りついていたけれど、あたしはその間も淡々と、己に課せられた職務をこなした。どうせあたしにとっては、大して関わることもなく過ぎていってしまう人なのだ。誰が雇われようが、雇われまいが、関係ない。
 とはいえ、〝世間一般の人々は、一介のアルバイトのために果たしてどんな履歴書を書くのか〟という単純な興味本位から、その内の何枚かは手に取って目を通してみた。他人の履歴書をまじまじ見るのははじめてだった。こうして並べてみると、ひと口に履歴書と言っても、いろんなタイプがあるのがわかった。
 あたしから見ても、この人は本当に雇われる気があるのだろうか、というような、空欄とわがままだらけのもの。履歴書に添えて、〝誠心誠意働きます〟という内容の文面を何枚もの便箋に書き綴った、度の過ぎた思いの重さにいささか辟易してしまうようなもの。こんな高学歴の人がどうしてこんなところに応募してくるのだろうかと、逆に不審に思えてきてしまうようなもの。
 履歴書だけでなく、電話もたくさんかかってきた。中でも印象に残っているのは、中年と思しきおじさんからの電話だった。こんな小さな医院で医療事務の仕事なんて、女の人しか雇わないに決まっているのに、時給だって決してよくはないのに、おじさんの必死さは電話越しにもひしひしと伝わってきた。必要な情報を尋ねて、履歴書を送るように伝えて、あたしはおじさんからの電話を切った。
 今は家族の仕事の手伝いをしているのだと言っていた。きっといい年をして、親の脛を齧るような生活を続けてきたに違いない。
 おじさんはどうにかして、自分の置かれた現状から脱却したかったのだろうか。だから藁をも掴む思いで、ここにも応募してきたのだろうか。けれど、どんなに完璧で、超人的な履歴書に仕上げたとしても、おじさんは決してここで雇われることはないのだ。何故なら職歴云々以前に、おじさんは男の人だから。
 結局のところ一番好感を持てるのは、証明写真の写りが良くて、字が綺麗と言わずとも丁寧で、全てにおいてそこそこに無難な線を突いている、そんな履歴書で、そして最低限要求される条件は、応募してきたその人が女の人であることなのだった。
 あたしの後任に就く子の採用が決まったことを知ったのは、ある朝出勤して、女子ロッカールームの左手の奥から二番目にある、自分のロッカーを開けた時のことだった。
 いつもとは何かが違う。そんな違和感に不意を突かれて、それまでの気怠い眠気も一気に吹き飛んだ。あたしのものではない、見慣れぬナース服とカーディガン、そしてナースシューズが、ロッカーの中に、遠慮がちに隅っこに寄せられて入っていた。
 そういえば女子用のロッカーは、あたしが採用された時からずっと、きっちり人数分しか用意されていなかった。どうやら正式に眼科を辞めるまでのしばらくの間、見知らぬ彼女とあたしがロッカーを共有することになったらしい。先輩たちは素知らぬ顔をして各々の支度に勤しんでいたけれど、あたしは勝手にそう合点した。あたしが抜けたあとの穴を埋めるために雇われた子なのだし、あたしは他の人たちみたいにロッカーを私物でいっぱいになんかしていなかったから、二人で使っても余裕は十分にあった。
 実に、理に適ったことではないか。あたしは自嘲ぎみに思った。
 誰が雇われることになって、いつから勤務することになっていたかなんて、他の人たちにとっては周知の事実だったのだろう。今の今まで知らなかったのは、あたしくらいのものであったに違いない。
 眼科に勤めた一年半、あたしのロッカーはいつもほとんど空っぽに近かった。未だよそよそしい顔しか見せることのないこのロッカーの中に、あたしという個人の痕跡を、ほんの少しでも、置き去りにしたくはなかった。だからあたしは、仕事で使うナース服とナースシューズ以外のものをロッカーの中に置いて帰るような真似を、ただの一度だって、したことはなかった。
 最初から、ここにあたしの居場所なんてなかったのだ。


 その日から、あたしと彼女のパラレル・ワールドは始まった。月が替わるごとに女子ロッカールームに貼り出されるシフト表には、あたしの勤務していない全ての日に、いつのまにか鉛筆で、彼女の名前が書き込まれていた。同じ日にひとつのロッカーを共有する二人が出勤しては、いくら空っぽのあたしのロッカーであろうと大変に混雑してしまっていただろうから、アルバイターたちのシフトを束ねて管理している先輩の判断は、正しかったと言える。
〝行貝〟
 それが彼女の苗字であるらしかった。はじめて見る漢字の並びだった。あたしは彼女を示すその漢字を読むことができなかったけれど、それを誰かに尋ねようともしなかった。そういったことを気さくに尋ねられるような相手を、あたしはこの場所に持ち合わせていなかった。
 先輩たちは不思議と、あたしの前で彼女の話題を持ち出さなかった。彼女はどんな子なのか、性格は人懐っこいのか、それとも人見知りをする方なのか、年齢や下の名前、学生か否か、仕事の覚えはどんな具合なのか、そういった彼女に関する情報を、あたしは何ひとつとして知らされていなかった。
 眼科に勤めた一年半の中ではじめて、女子ロッカールームは特別な意味を持つ場所となった。シフト表に書き込まれた彼女を示す音のない記号と、共有するロッカーに残された彼女の痕跡だけが、あたしと彼女を繋ぐ唯一の絆だったからだ。真新しい制服の一式はいつも遠慮がちにロッカーの隅っこに寄せられて入っていたし、あたしもそれに倣って反対側の隅っこに、色褪せたナース服と毛玉の浮いたカーディガン、履き潰したナースシューズを入れた。一年半も履き続けたせいですっかり黒ずみ、ぼろぼろになってしまったナースシューズを、彼女に見られることを恥ずかしくも思ったが、今頃になって新しいものに履き替えるわけにもいかなかった。こんなことならもっとちゃんと手入れをして、大事に履いていればよかったと、あたしは少し後悔した。彼女がこのロッカーをいかに気持ちよく、広々と使えるかを思案し、どんな些細なことであろうと惜しまずに尽力することが、彼女と出会うことのできない運命を課せられたあたしにできる、せめてものことだった。
 あたしのはどんな子なのかしら、とあたしは仕事もそこそこに、見知らぬ芳しい彼女に思いを馳せるようになっていた。きっと清潔感があって、礼儀正しくお行儀もいい、絵に描いたような女の子であるに違いない。その証拠に、彼女のナースシューズはいつも寸分の狂いもなく美しく揃えられていたし、ロッカーを開けた瞬間、心なしか知らない女の子のいい匂いが鼻先に漂ってきて、あたしをうっとりさせるのだった。
 彼女はとてもあたし好みの女の子に違いないと、あたしは確信していた——念のために弁解しておくと、あたしはレズビアンではない。あくまでも観賞目的、そう、小さな女の子がお人形を愛でるのと同じ感覚で、可愛い女の子が好きなのだ——、吊り下げられたナース服やカーディガンからこんなにも生々しく存在を感じているのに、あたしと彼女は度し難く交わることのない並行の世界を生きていて、決して巡り合うことはないのだ、という事実が、なおのことあまやかな切なさを伴って、彼女への思いを増した。この特異な状況にいささかの陶酔を覚えていなかったと言えば、うそになるだろう。
 彼女のことが気になって、気になって、気になり続けたまま時は過ぎ、あたしが眼科を辞める日は着々と近づいてきていた。ちょうど同時期に退職が決まった視力検査員の女の子との合同送別会も、面倒だからというただそれだけの理由で、あたしは蹴った。勿論、断る時には適当にそれらしい言いわけをでっちあげたけれど、彼らも本当のところ、なんとなく察しはつけていたのかもしれなかった。
 勤務最後の日、あたしは別段彼らに何の期待も要求もしていなかったのだけれど、その日居合わせた人たちは、あたしのためにささやかな贈答品授与式を行ってくれた。みんなの前で晒し者にされて、あたしはうまい言葉も言えず、予想だにしていなかった展開のただ中を、曖昧に笑って誤魔化すことしかできなかった。最後まで、あたしはこの眼科で、みっともない、何の取り柄もない女だった。
 大した思い入れもない人たちとの茶番をどうにかやり過ごすと、彼女の荷物だけになったロッカーに向かって、誰にも聞かれぬようにそっと〝さよなら〟と呟いた。あたしにとって、ロッカールームの君であるところの彼女だけが、眼科に勤めた一年半の中で、唯一無二に特別で、大切な存在だった。ロッカーを閉めた時、あたしの中の何かも一緒に終わりを告げたような気がした。
 着古したナース服は、各自でクリーニングに出してから返却するのが慣習だったので、どんなに面倒でも持ち帰らなければならなかった。ぼろぼろのナースシューズは帰り際、雑居ビルの一階にある薄暗いゴミ捨て場に、剥き出しのまま突っ込んだ。あたしにはもう、ただの少しも必要のないものだった。
 帰ってから開封した贈答品は、入浴剤やフレグランスといった、香りのするものの詰め合わせだった。どれも匂いがきつくて安っぽい、あたしの好みではないものばかりだった。シャワーを浴びる気力も失せて、あたしは今日という一日のいろいろの疲れにまみれたまま、ベッドに倒れ伏した。最低の気分だった。


 それからの日々は、胸にぽっかり穴の空いたような気分のまま過ごした。理由はわかりきっている。彼女とあたしの閉ざされたパラレル・ワールドが、失われてしまったからだ。
 確かにあたしはロッカールームだけで繋がった彼女の存在を特別なものと感じていたし、その痕跡を確かめることはあたし自身の存在に触れることとほとんど同義であったけれど、正直なところ、彼女を失ったことによって自分がこれほどまでにダメージを受けるとは思ってもみなかった。
 あたしは彼女の、顔も知らないのだ。それどころか名前でさえ、音を持たない記号という形でしか知らない。
 崇高な理由があったわけでもなく眼科のアルバイトを辞めた以上、次の勤め先を探さなければならなかったけれど、その気力もなかなか湧いてはこなかった。どうせどこに行っても同じことだ。くだらない仕事と、つまらない人たち。彼女以上に特別な何かを与えてくれる人も場所も、ありはしない。
 眼科のアルバイトを辞めてもうひとつ、思い知ったことがある。それはあたしがいかに無趣味な人間であったかということだ。眼科のアルバイトを始める前、あたしは試験監督のアルバイトをしながら学生生活を送っていたし、こなさなければならない全てのことからあたしが解放されたのは、これがはじめてのことだった。
 目の前に広がる漠然とした時間に、あたしはただただ途方に暮れた。まっさらな時間だけが地続きにそこにあって、それをどう使えばいいのか、あたしにはさっぱりわからなかった。服や化粧品にお金をかけたり、テレビドラマに夢中になったり、そういったありふれた趣味さえも、生憎あたしは持ち合わせていなかった。時間がないとか、時間はいくらあっても足りないだとか、口を揃えて言う同年代の人たちは、なんと酔狂なのだろうか、とも考えた。世の中みんな、狂っている。みんな一体、何をそんなに生き急いでいるのだろう。時間はこんなにも茫洋としていて、この空白にずっと身を晒していたら、気がへんになってしまいそうだ。だからみんな、進んで自分を忙しない方へ、追い込んでいくのかもしれない。
 ああ、そういうことか。あたしは妙に納得した。
 世の中はこうして、成り立って行くのだ。なんて巧妙なからくりだろう。みんなみんな、長い時間をかけてこの世界に築き上げられてきたシステムの恩恵を受けながらも、そこに仕組まれた途方もないパラドックスを延々と繰り広げている。それはなんと不毛な、負の循環であることだろうか。いるかどうかもわからない神様に、この世界の人たちはみんな、騙されているのだ。だけどあたしだけは、決してそんなものには惑わされぬようにしようと、そう心に誓ったはいいものの、やっぱり果てなく続く時間の使い道があたしにはまるでわからず、殻にこもった日々を送った。彼女を失ったあたしには、本当に何も残されてはいないのだった。
 暇を持て余したあたしは、そのうち何の目的もなく、町を徘徊するようになった。じっくりと目を凝らしてみたり、いつもは通らないような路地裏に何食わぬ顔をして潜り込んでみたり、とにかく思いつく限り、ありとあらゆる視点で、見慣れたはずの町並みをもう一度観察した。するとこの町には、ひっそりとした雑貨屋や、古びた魅力溢れる喫茶店が、いくつも町並みに溶け込み、ひしめき合っていることに気がついた。あたしはそれらの店を一軒一軒、丁寧に見て回ることにした。幸い時間はいくらでもあった。
 昔懐かしい文房具ばかりを取り揃えた、小さいけれどノスタルジイをくすぐられる文房具屋さん。入れ替わり立ち替わり、様々なアーティストと呼ばれる人たちの個展や展示会が開かれ、店頭には手作りのアクセサリーや雑貨も並ぶ、二階建ての小さな画廊。陶芸やニットなど、作家ものの販売スペースを兼ね備えた、おいしい創作カレー屋さん。レトロだったり古めかしかったりする看板を掲げた、純喫茶と呼ぶのがふさわしいような茶店の数々。黄昏時のわずかな間だけ、ぼんやりとランタンの明かりが灯る蚤の市。
 夜の混沌と入り組んだ路地裏の賑わいもまた、昼間とは異なる趣きを見せて楽しかった。行き交う人々がどうにかすれ違える程度の幅しかない細い路地には、小ぢんまりとした商店がいくつも立ち並び、パスタや焼き小籠包などの飲食店から、何故か鮮魚店まであって周囲に生臭い匂いを撒き散らしているのにはぎょっとさせられたけれど、なんと言っても見どころは、複雑に入り組んだ路地の西側に位置する飲み屋街だった。
 飲み屋ばかりが集まっているため、昼間はシャッターを下ろしている店がほとんどで、日のあるうちに通りかかってもただの寂れた細道にしか見えない。ところが夜になると一転、右に左に電飾や吊り提灯のあたたかみのある明かりが灯り、活気に満ちたジオラマの飲み屋街が姿を現す様は、一種幻想的でさえあった。
 あたしは飲み屋に面した通りを縫うように練り歩くだけで、そうしたお店に入ることは滅多になかったけれど、一度だけ、お酒が欲しくなってふらりとその内の一軒に立ち寄ってみたことがある。店の主人は気のいい老人で、ここら一帯では珍しい若い女の一人客、しかもビール一杯とハーフサイズの餃子しか頼まなかったあたしにも、気さくに話しかけてくれた。聞けばこの入り組んだ路地裏に形成された商店街は、元を辿れば大戦後、荒廃した町に自然と人が集まってできた闇市がルーツなのだという。なるほどこの混沌とした、一度迷い込んだら抜け出せなくなってしまいそうにで濃密な空気は、妖しげにくすむ蜜の匂いと、雑多ないかがわしさを伴って、あたしを魅了するのだった。
 街中に点在する、雰囲気のいい茶店を探し当てては巡ることも、楽しみのひとつとなった。古書店で文芸書を調達し、いわゆる純喫茶と呼ばれるようなお店に入って、コーヒーをブラックで嗜みながら読書に耽る時など、あたしはちょっとしたインテリ気分を味わえた。もっとも、形ばかりどんなに知識人を気取ってみたところで、今のあたしがフリーターどころか無職であるという事実は、歴然として変わらないのだった。
 大学を卒業してからもあたしはずっと実家暮らしをしていたし、それまでの無趣味が幸いして貯蓄だけはしっかり備えがあったので、そうやって風来者のような過ごし方をしていても、当面は生活に困ることはなさそうだった。服や化粧品に高いお金をつぎ込むようなことも、依然としてなかった。
 そんなあたしでもたったひとつだけ、ちょっとした出費をしたものがある。
 それはフラミンゴみたいに鮮やかな色をした、細身のオープントゥ・パンプスだった。あたしはそれまでこんなにヒールの高くて細い、小洒落たシルエットの靴を履いたことがなかった。オレンジがかった発色のいいピンク色も、地味なあたしのイメージとはかけ離れていた。あたしは染髪をしたこともなければ化粧もそこそこ、アクセサリーの類なんてまずつけなかったし、ピアスなんてあんな痛そうなものはもってのほかだと考えていた。たかだかお洒落のために体に風穴を開ける女の子がそう珍しくもないなんて、世の中どうかしている、というのが、あたしのもっぱらの持論だった。
 その靴は、スカーレットやペパーミントといった色鮮やかな靴と一緒に、お洒落なお店のショーウィンドウの最前列に飾られていた。彩り豊かなショーウィンドウの前を通るたび、あたしはお店に入るかどうか迷っては歩みを止め、結局踏ん切りがつかずに通り過ぎる、ということを繰り返していた。
 あたしが何より惹かれたのは、その色だった。他で見かけるぼやっとした、どこか煮えきらないオレンジピンクではなくて、はっきりと意思を持った色だった。どうして同じように彩度の高い色の中でも、スカーレットやペパーミントではなく、フラミンゴのオープントゥ・パンプスでなくてはいけなかったのか、あたしにも説明がつかない。
 ようやく踏ん切りがついてお店に入ることができたのは、あたしとその靴とが運命的な出会いを果たしてから十日ばかりが過ぎた頃のことで——その間、何度かショーウィンドウは模様替えをされ、フラミンゴのオープントゥ・パンプスは店の奥まった方に行ってしまったこともあったけれど、最終的には再び同じショーウィンドウに飾られていた——店に入るや否や、目当ての品をぞんざいに引っ掴み、お店の中をまっすぐに突っきると、
「これ下さい!」
 とさながら果たし状でも突きつけるかのような勢いで、レジに突き出したのだった。
 アルバイトの面接や、一人で路地裏の飲み屋に入った時よりも、あたしはよほど緊張していた。そうでなければ、まさか公共の場でこんな奇行に走り、周囲の人たちから好奇の視線を集めることなどなかっただろう。あたしは基本的に温厚で、多少世間からずれていたとしても、それ以外は至って常識的な人間なのである。
 店員のお姉さんは、スチュワーデスのように完璧なお化粧と、完璧なほほ笑みを会得している女性ひとだったけれど、突如として現れたかと思えば猛然とレジに突進してきた女——つまり、あたし——に酷く困惑した様子で、
「ご試着はされていかれますか?」
 と尋ねたのだった。


 スチュワーデスのような靴屋のお姉さんのおかげで、あたしは無事に自分の足にぴったりの、フラミンゴのオープントゥ・パンプスを手に入れることができた。あたしにとって特筆すべき大事件があったとすればそれくらいのもので、その他は特にどうということもなく、似たり寄ったりの日々は過ぎていった。
 いつの間にか、この辺りのニッチなお店事情について、あたしはすっかり詳しくなっていた。眼科を辞めた頃、夜はまだ肌寒く、桜の木々が町のあちこちで無粋なアスファルトに繊細な花弁の絨毯を敷き詰めていたけれど、今ではその面影もすっかり薄れ、高揚する気温と湿度に駆り立てられたように、アブラゼミやミンミンゼミがじわじわと鳴き始めていた。着古したナース服は、クローゼットの片隅に綺麗に折り畳んで置いてあるだけで、まだクリーニング屋さんには持ち込んでいなかった。
「あんた、逸町雪代そりまちゆきしろでしょ」
 町中で、出し抜けにそう声をかけられたのは、そんな折のことだった。
 ちょうどあたしはその時、石畳の坂を上った天辺にある、例の小さな二階建て画廊のアクセサリーや雑貨の新商品を、膝に手を突きガラスに顔を近づけて熱心に眺めていたところで、そんな体勢のままびっくりして振り向いたものだから、向こうからすれば大層まぬけな格好に映っていたに違いなかった。典型的な夏日で、容赦のない日差しがじりじりと、あたしの剥き出しの腕やうなじに照りつけ、肌をじっとりと汗ばませていた。
 振り返って、あたしは思わず〝わあっ〟と声をあげそうになった。そこに立っていた女の子があんまりにも綺麗で、可愛くて、あたし好みの女の子だったからだ。
 整ったアーモンドの形も美しい、琥珀色アンバーの大きな瞳。その縁をびっしりと覆う、すっと長いまつげ。癖のないまっすぐな御髪は光の粒子を集めて飴色に透け、シルクのようにきめ細やかな頬は内側から淡く紅を刷いたような仄かな桜色をしている。肩は薄く小さく、手足は細長く、どのパーツをとって見ても華奢で白い。年と背丈は、あたしと同じくらいだろうか。まさしく絵に描いたような、何かの手違いがあっておとぎの国から飛び出してきたかのような、綺麗で、可愛くて、非の打ち所のない、超人的に完璧な女の子。
 上から下まで、遠慮会釈なくじろじろと女の子を眺め回して、あたしが何より驚いたのは、彼女の履いている靴だった。フラミンゴみたいに鮮やかな色の、オープントゥ・パンプス。他では見かけない、意思を持った色。今、あたしが履いているのと、全く同じ色かたちのもの。こんな雲の上にでも住んでいそうな絶世の美少女と、ごくごく一般階層の庶民であるあたしが、何の因果か同じ靴を履いている。
 あたしは嬉しくなって、その事実を彼女に告げようとした。ところが、あたしが心身ともに彼女と対話する準備を整えた途端、
「逸町雪代かって訊いてんの」
 女の子はにべもなく、再びあたしに詰め寄った。
「——そうですけど、」
 女の子の勢いに気圧されて、あたしはひとまず頷いた。確かにあたしの名前は逸町雪代、早生まれ二十三歳の、フリーター——現在、無職——である。
 そうだった。靴がどうこう以前に、どうして目の前の女の子があたしのことを知っているのかということの方が、問題としては先決だった。何故ならあたしは確かに逸町雪代という名の人間であり、こんな美少女を、あたしは知らないのだから。
 あたしが逸町雪代だとわかると、女の子は満足げに、フフンと笑った。言っちゃ何だが、彼女のような可憐な美少女にはこれっぽっちも似合わないニヒルな笑みだった。
「やっぱりね。ねえあんた、どうせ暇なんでしょ。ちょっとあたしと一緒に来て!」
 言うや否や、答える隙も与えてはくれずに、女の子はあたしの手を躊躇なく掴んで、ぐいぐいと先陣切って歩き出してしまった。
「えっ、あ、——ちょっと!」
 その理不尽な手をあたしが振り払えなかったのは、そんな乱暴を働いたら折れてしまいそうに彼女の手首がか細かったというのもあるし、この暑いのに女の子の手が汗ばむこともなくひんやりとした温度を保っていることに驚いてもいたし、それより何より女の子の瞳や背中、その全身から発せられている、小さな体躯からは及びもつかない物凄いエネルギーに、ごく月並みな器しか持ち合わせていないあたしは、すっかり当てられてしまっていたのだった。
 女の子に手を引かれたまま、いくらも歩かず連れてこられたのは、見知った場所だった。煉瓦造りの佇まいも見事な、古びた純喫茶。あたしが巡った中でも指折りに好きなお店で、ついつい何度も足を運んでは、たった一杯のコーヒーで何時間も居座り、読書に耽る迷惑な客だった。
「入りましょ、」
 言葉と共に、白い手がするりと手の内から逃げていくのを、何故か心惜しく思った。女の子は涼しげなリネンのスカートをはためかせて悠然と段差を上ると、両手をドアノブに掛け、と重いドアを開け、店の暗がりに吸い込まれて行った。あたしも急いで女の子のあとを追い、目の前で今にも閉ざされてしまいそうになるドアをすんでのところで捕まえた。その衝撃に、建物と同じように古び、錆びついたドアベルが、運命のように鳴った。
 女の子と向かい合って席につき、珍妙な厳粛さでもって注文の儀を執り行い、メニューの冊子がマスターの手によって取り払われ、とうとう二人の間を誤魔化すものが何もなくなってしまっても、あたしの頭はただひとつの疑問の解決に向けてフル稼働していた。  今、あたしの目の前にいる、この超絶可愛い美少女は、一体誰なのだろうか。本当はどこかで会ったことがあって、あたしが忘れてしまっているだけなのだろうか。それとも彼女の方が、他の誰かとあたしを取り違えているのだろうか。いや、でも、この子は確かにあたしの名前を呼んだし、そもそもあたしがこんなに可愛い女の子のことを忘れるはずがないし——、
 答えを出せずに悶々とするあたしの思考を読み取ったかのように、
「あんたって、ホンットウにバカね」
 と女の子は蔑みと哀れみの眼差しをあたしに向けた。物凄く腹の立つ表情カオだった。可愛いくせに、口と態度は本当に悪い。
「ていうか、案外普通の子なのね。〝〟なんて変わった名前だから、どんな面白い子かと思ったのに、期待して損しちゃった。あーあ、つまんない」
 その言葉に、あたしははっとした。ツマラナイのレッテルを貼られたからではない。つまり彼女は、ついさっき道端で出会うまで、あたしの名前しか知らなかったのだ。そしてあたしも、彼女のことを知らない。加えて、今はお行儀悪く椅子をガタガタといわせてはいるけれど、絵に描いたようなこの美しさ。ここまで条件が揃えば——あたしが勝手に思い描いていたに過ぎないけれど——もう思い当たるのは一人しかいない。ほとんど忘れかけていた、でも心のどこかでずっと引っかかり続けていた、音を持たない秘密の記号。
「もしかして、〝行く〟に〝貝〟って書く、あの……?」
「だからそうだって言ってんでしょ!」
 ——言ってない。
「ていうか、何?あんたあたしの名前も知らなかったの?周りの人に訊こうとか、思わなかったの?——へんな子。わからなかったんなら、訊けばよかったのに。あんた、周りに馴染めてなかったって、本当なんだ。辞めた本当の理由も、もしかしてそれ?」
 彼女はあたしの胸にグサグサ突き刺さることを、ずけずけと言ってくる。放たれる言葉は全部、あたしが一番、他の誰からも指摘されたくないことばかりだった。だってそんなこと、他の誰よりあたしが一番よくわかっていることだったから。
 彼女が言葉を連ねるに連れて、ただでさえこの暑さで参っていたあたしの気分はどんどん萎んでいった。あたしが思い描いていた、モナリザのように慎ましく優しくほほ笑む〝彼女〟の肖像が、ガラガラと音を立てて崩れ去っていった。まさかこんな嫌味な女が、あたしの、ロッカールームの君だったなんて。
 だけどきっと、この子はあたしよりも、あの場所でうまく立ち回っているに違いないのだ。あたしがまだあの息苦しい場所にいて、努めて周りの声から耳を塞ぎ、物言わぬカルテとあたし、という不毛の世界を無心に構築していた頃から、彼女は先輩たちからあたしのことをそれとなくぼやかした言葉で伝え聞いていて、色褪せたナース服やぼろぼろのナースシューズを見るたび、憐憫と優越の情に浸っていたのだ。そこにいるだけでぱっと華やぐ彼女に、先輩たちがあたしのことをどんな言葉を用いて表現したのかと考えるだけで、きりきりと胃の辺りが痛んだ。どうせなら、へんに気を遣った言葉より、はっきりと悪意を持った言葉で罵ってくれた方がいい。そうすれば、あたしは密かに陰口を叩かれる哀れなはぐれ者で、先輩たちはちょっとだけ、悪者になるのだから。先輩たちがあたしの前で彼女の話をしなかったのも、そうした後ろめたさが曲がりなりにもあったからかもしれない。実にばかげたことに、彼女の本性を知ってなお、あたしはあたしのみっともない部分を、向かいに座る綺麗な女の子に知られたくないと思っていた。
「——なんとか言いなさいよ」
 あたしがふっつり押し黙ってしまったので、彼女は居心地悪そうにあたしをせっついた。けれど、あたしはもう何も彼女に話す気にはなれなかった。
 こんなにも意地の悪い女が、とんでもなく美しい外見をしているという事実が、より一層あたしをみじめにさせた。天は人の上に人を造らず、だなんて真っ赤な嘘、人間は生まれておぎゃあと泣いたその瞬間から不平等だ。フラミンゴのオープントゥ・パンプスだって、寝巻きに毛が生えたみたいな格好をしているあたしより、お人形みたいに可愛いお洋服を着た彼女の方がずっとずっと似合っている。あたしなんかより彼女の方が、フラミンゴのオープントゥ・パンプスが持つ本来の魅力を引き出し、より引き立てることができるのだ。
 どうしてあたしはこんな見ず知らずの女と、呑気にコーヒーなんか飲もうとしてるんだろう。それもこの暑い日に、彼女につられてホットコーヒーなんか頼んでしまったし、ああ、本当にこんなところに来るんじゃなかった、とあたしの頭はもうそればかりだった。
 もはやあたしに何の反応も望めそうにないことがわかると、彼女はますますつまらなそうにツンとそっぽを向いてしまい、あたしたちのテーブルにはいよいよ気まずい沈黙が降りた。
 ちょうどその時、タイミングがいいのか悪いのか、マスターがあたしたちのテーブルに注文の品を持ってやってきた。彼女はホットコーヒーとホットケーキ。あたしはホットコーヒーを一杯だけ。
 重たい空気を引きずったまま、彼女がコーヒーにミルクをたっぷりと注ぐ微かな水音だけが、あたしたちの間に響いた。あたしはぼんやりと、彼女のコーヒーカップの中にとろりとした乳白色のミルクが落ち、緩やかなマーブル模様を描いていく様を眺めていた。高飛車な立ち振る舞いとは裏腹に、ミルクポットを扱う手つきは嫌味なくらいに丁寧で、正確で、品が良かった。それだけが、目の前の彼女が確かにロッカールームの君であるのだという事実を、どうしようもなくあたしに突きつけていた。
「——行貝雪洞なめがいぼんぼり、」
「え?」
 彼女がコーヒーを飲む姿に見蕩れていたあたしは——それは、実に絵になった——咄嗟に何を言われたのかわからなかった。
「あたしの名前よ!」
 ボケッとしてるとコーヒーが冷めるわよ、と言って、彼女はもうひと口コーヒーを啜った。
 なめがいぼんぼり。
 あたしはその音の持つ響きを、改めて頭の中で反芻した。すっかり荒廃していたあたしの胸に、にわかに感慨が涌き起こった。何しろ彼女を示す記号が、ようやく音を持ったのだから。
 ああ、それにしても、なんてへんてこな名前だろう!彼女はあたしの名前を変わっていると言ったけれど、あたしがへんなら彼女だって負けず劣らずへんだ。だってぼんぼりと言ったら真っ先に思い浮かぶのはお雛飾りのあの雪洞ぼんぼりで、人の名前だなんて思う人はまずいない。なめがいぼんぼり。行貝雪洞。あたしのロッカールームの君は、本当にこの世に、実在していたのだ!
 ところが雪洞に、そんな奥ゆかしいあたしの感動が伝わるはずもなく、
「あんたって、ホンットウにとろいわね。そんなんでちゃんと仕事できてたの?」
 と棘のある言葉が、ようやく頭をもたげつつあったあたしの気持ちを再び踏みにじりにかかってきた。
 それがいけなかった。
 あたしはとうとう、あたしの向かいですました顔をしている口も態度も悪い女に、張り手のひとつでもかましてやりたくなってしまった。このが、貴様如きのためにあたしがこんなにも心動かされているというのに無下にしやがって、と思ったけれど、そこはなんとか思うだけに押し留めたのだから、あたしはあたしを褒めていいと思う。それでもひと言もの申さずにはいられず、
「あんたこそ、その性格の悪さでよく採用されたわね。確か面接したのって、検査員の緒方さんでしょ?あんた、相手が男なのをいいことに、色目でも使ったんじゃないの?」
 つい、ポロッと口を突いてそんな言葉が出てしまい、あたしは〝しまった〟という顔をしていたに違いなかったけれど、その刹那、雪洞の瞳がさも面白いものでも目の当たりにしたかのようにきらりと光るのがわかった。
「そっちこそ、そんなでよく採用されたわね。奇跡としか言い様がないわ。もしかして今無職?」
 雪洞がこの状況を楽しんでいることがわかると、あたしももう遠慮しなかった。なるほど彼女があたしに求めていたのは、こういうスリルだったのだ。
「おあいにく様、あたしバイトの面接で落ちたことないのよ。あの腐りきった仕事からやっと解放されたから、つかの間の自由を謳歌してるだけ。それにお言葉ですけど、あんたみたいな猫っ被りの性悪女よりか数倍ましだわ」
「あらやだ、それ嫉妬?いるのよねえ、人がちょっと可愛いからって、嫉妬心剥き出しにしてくる卑しい女。みっともないったらないわ。まあ、あんたってコミュニケーション能力にも恵まれてなさそうだし、全てにおいて優っているあたしにどうにかして突っかかりたくなるってのも、無理ないけど?」
突っかかってきたですって?そもそもなんであたしがあんたの名前だとかなんだとか、知ってなきゃなんないのよ。あんたって、世界中の全人類が自分に興味を持っていないと気が済まないタイプ?」
「あんたみたいなの、トウヘンボクって言うのよ」
徒花あだばなに実はらないって、ご存じ?」
「なんですって!?」
 いつの間にか、あたしたちはすっかりこの言葉の応酬に熱中していた。他のお客さんたちは呆気に取られてあたしたちのテーブルを傍観していたけれど、そんなことも気にならないくらい、あたしたちは互いに互いを言い負かすことに夢中になっていた。
 不思議と気分が高揚していた。こんなにも何かひとつのことに熱中するのは——たとえそれがくだらない口論の延長線上にあるものだとしても——本当に久しぶりだった。さながらテーブルはテニスコート、言葉はボール、おしゃべりな唇をラケットに、あたしたちの試合は白熱する。唖然とする観客は置いてけぼりのまま、遅咲きの青い春に、見えない汗が光る。
 見兼ねたマスターが、コーヒーのもう一杯サービス、という形で仲介に入る頃には、もはやあたしたちは互いのことを戦友として認めざるを得なくなっていた。雪洞のミルクたっぷりのコーヒーと、あたしのブラックコーヒーは、白熱するあたしたちに呆れ返って、すっかり興醒めしてしまっていた。
 コーヒーを飲み進める間にも、あたしたちは互いにチクチクといがみ合い、二杯目のカップが空になる頃には、もうすっかり気心の知れた仲になった気でいた。マスターは口髭をこんもりと蓄えた初老の男性で、寡黙で無愛想、笑顔どころか必要以上の言葉を発しているところなんて見たこともなかったけれど、とても綺麗な白髪をしているのが印象深い人だった。コーヒーのサービスにやってきた時も、マスターは何も言わなかったけれど、それだって、〝まあこれでも飲んで落ち着きなさいよ〟という彼なりのメッセージだったのかもしれない。あたしと雪洞は何度もマスターに謝罪をし、お礼を言い、そして最終的にはやっぱり互いを罵り合ったのだった。マスターはふっと小さく息を吐くと、のっそりとあたしたちのテーブルから離れていった。今のは笑われたのかしら、それとも呆れてため息をついただけかしら、とあたしはちょっぴり気になった。
「どうする?」
 レジの前に立ち、鞄からごそごそと財布を取り出しながら、あたしは雪洞を振り返った。勿論、二人でどういうふうにお金を出し合うか決めるつもりだった。ところが雪洞は、懐から財布を取り出す素振りも見せず、
「あたし今、お金持ってないの。あとで返すわ。あんた、払っておいて」
「——はい?」
「だから、お金がないの」
 悪びれもしない雪洞に、あたしは呆れてしまった。あたしに持ち合わせがあったからいいようなものの、もしもあたしが小学生のお小遣い程度のお金しか持っていなかったら、一体どうするつもりだったのだろうか。何しろあたしは、無職なのである。
「——辛抱なさいよ」
 その時、レジの向こうのマスターが、ぼそりとそんなことを言ったので、あたしはびっくりして、危うく財布を取り落としそうになった。マスターはいつも、お会計の時でさえ石のように黙りこくって、お客が飲食した分だけのお金が支払われるのを待っているような人だったから、あたしがマスターの声をまともに聞いたのはこれがはじめてのことだった。
「はーやーく!」
 悟りを開いたかのようなマスターの言葉には気がつかなかったのか、雪洞はあたしの服の裾をぐいぐい引っ張って急かしてくる。我に返ったあたしは、急いで財布の中を探った。二人分のお代を、お釣りなしできっかり支払えるだけのお札と小銭はあった。本当にこのお金は戻ってくるのかしら、コーヒーの一杯とホットケーキの一皿くらい別に構わないけれど、なんとなく腑に落ちない気分のまま、あたしの分と雪洞の分、二人合わせたお金を支払った。
 コーヒーが二杯で六〇〇円、ホットケーキが五五〇円、足すことの一一五〇円。
「さっき、何を見てたの?」
 古びたドアベルに送り出されて店を出ると、雪洞は足取りも軽やかに、タタン、とフラミンゴのオープントゥ・パンプスを鳴らして段差を駆け下り、くるりとスカートの花を咲かせてあたしを振り仰いだ。あたしのフラミンゴは、コツン、と冴えない音をひとつ鳴らしただけだった。あたしのつま先には、店の張り出した軒が描く、影と日なたとの黒々とした境界線があり、彼女の姿は照りつける夏の日差しに霞み、淡く揺らいで見えた。
「——別に、何でもいいでしょ」
 咄嗟にうまい言い訳も思いつかず、しまった、と思った時には時既に遅し、雪洞の瞳は早くも新しい玩具を見つけた子どものそれになっていて、
「なになに?教えてくれたっていいじゃない。ね、行こうよ」
 と再び強引にあたしの手を引っ張って歩き出してしまった。垣間見える横顔は実に嬉々として、楽しげだった。
 あたしはほんの一寸前の浅はかな自分を呪いたくなった。雪洞とはまだ出会ったばかりだけれど、喫茶店での応酬で、何よりも人の触れられたくない部分を突ついて面白がる子だということはわかりきっていたはずだ。それなのに、こんなにもわかりやすく隙を見せてしまうなんて、迂闊としか言い様がなかった。
 どうか雪洞のバカがお店の場所を忘れてくれていますように——というあたしの切なる願いも虚しく、雪洞は迷いなく、あたしがさっきまで乞食のように張りついて眺めていたショーウィンドウの前で足を止めた。
「へえ、結構可愛いじゃん」
 雪洞がからかうような口調で言うので、あたしは自分のことを言われたわけでもないのに、頬にかっと血が昇るのを感じた。
 雪洞との出会いから時は少しばかり遡り、偶然坂の上の二階建て画廊の前を通りかかったあたしは、新たにショーウィンドウに並べられていた手作りの品の数々に、ひと目で夢中になった。ピアスやイヤリング、ブローチにヘアピン、ハットピン。まるで絵本や図鑑、おとぎ話の世界から出てきたかのような、デコパージュやアンティークプリントのアクセサリーたち。あたしには及びもつかない、雪洞と同じ世界の住人たち。
 あたしの心中を知ってか知らずか、雪洞は勝手知ったるといった風情で、ずんずんお店の中に入っていってしまった。
「ちょ、ちょっと」
 正直言って、あたしは狼狽えた。だって、こんな妖精みたいに可愛い女の子と、あたしみたいに冴えない女じゃ、どうしたって釣り合いが取れない。しかも、そんな二人が図ったようにお揃いのパンプスを履いているだなんて、端から見たあたしたちがどんなふうに映っているかを想像するだけで、あたしはいたたまれなかった。あたしは徐々に、彼女に対して引け目を感じ始めていた。
 雪洞はショーウィンドウの品をまともに物色することもせず、
「これ、買って」
 と迷わずひとつの品を指差した。桜貝みたいにすべらかな爪の乗っかった指が、まっすぐに指し示したものを見て、あたしはどきりとした。それは、ディスプレイされたたくさんのアクセサリーの中でも、ひと際あたしの心を惹きつけたものだったからだ。
 ピエロの衣装を身に纏った、どこか滑稽なウサギ人間のブローチ。雫型のカットガラスのパーツが、閉じた瞳の下でゆらゆらと揺れる仕組みになっている。泣いているウサギ人間のピエロ。どうして泣いているんだろう。何がかなしくて泣くんだろう。
「はあ?なんであたしが、」
「いいから!」
 動揺を悟られないようにと張った虚勢も虚しく、雪洞はウサギ人間のピエロを引っ掴むと、半ば引きずるようにしてあたしをレジの前へと突き出した。レジの向こうでは優しそうなお姉さんが、にこにことほほ笑ましげにあたしたちを見守っていて、
「いらっしゃいませ、」
 とやっぱりにこやかに言った。雪洞はもう、〝あたしはちょっとわがままなだけの、何の害もないごく普通の女の子です〟という顔をしていて、当たり前だけれどあたしを助けてくれる気なんてさらさらなさそうだった。そうまでされたら、押しに弱いあたしには、もう財布を取り出す以外の道は残されていなかった。
 お札を数えながら、あたしは悔しくて、みじめで、泣きそうだった。この町の中から、あたしが見つけ出したウサギ人間。あたしがお金を出して、それなのに雪洞の手に渡っていくウサギ人間。
 別にいいじゃないか、あたしなんかよりよっぽど、雪洞にこのブローチは似合うのだから。そう、フラミンゴのオープントゥ・パンプスと同じように——そう何度言い聞かせてみても、虚しさは増していくばかりだった。手作りの一点ものだから、こんな小さなブローチでも、そこそこの値段がした。
「はい、どうぞ」
 あたしたちのことを、姉妹か何かだと勘違いしたのだろうか。ウサギ人間のブローチを買うに至るまでの一部始終を見ていたお姉さんは、慣れた手つきでウサギ人間を包装すると、何の迷いも躊躇いもなく、雪洞に向かって笑顔でそれを差し出した。
「ありがとう」
 雪洞もにっこりと、あたしには見せたこともないようなよそゆきの笑顔でそれを受け取った。雪洞の猫っ被りを胸中で罵る気力さえ、あたしには残されていなかった。


「ん、」
 店を出ると、雪洞は出し抜けに、今しがた受け取ったばかりの紙包みをあたしの鼻先に突きつけてきた。あたしは面食らって、目を瞬かせた。
「え?」
「あんたにあげる」
「——あたしがお金、出したんですけど」
 けれど、雪洞はもうそれ以上何も言わず、ぐいぐいとあたしに向かって紙包みを押しつけてくるのだった。
 あたしは目と鼻の先にあるそれを見つめた。お店の名前がかすれたグランジ風にプリントされた、クラフトの紙包み。可愛らしい水玉のマスキングテープで封をしてある。中ではきっと、ウサギ人間のピエロが泣いている。
 雪洞はどうして急に、あたしにこれをくれるだなんて言い出したのだろう。これを買うように要求したのは雪洞なのに。おとぎの国から飛び出してきたみたいなブローチは、雪洞にこそふさわしいものなのに。もしかすると、あたしのみじめな気持ちに気がついて、雪洞なりに気を遣ったのだろうか。
 だとしたら大きなお世話だ、とあたしは思った。同情なんてものは、あたしを余計みじめにさせるだけだった。捉えどころのない雪洞の行動に、あたしは苛立ちを覚え始めていた。それはあたしの中で次第に肥大し、エスカレートし、やがて眼球の奥がかっと熱くなったかと思うと、目の前が白くスパークした。
「なんで——なんでよ!」
「……え、」
 喫茶店で血湧き肉躍る応酬を繰り広げた時とは全く種類の異なる剣幕に、雪洞がその日はじめて動揺を見せるのがわかった。一度そうして表に出してしまったら、もう溢れるものを押し留めることなんてできなかった。
「あんたが欲しいって言ったんでしょ——あんたが欲しいって言ったんでしょ!あんたが欲しいって言うから、あたしはお金を出したんじゃない!へんな同情しないで!あたしはこんなもの欲しくない——だってあたしには似合わないから!あたしにはこんなもの必要ないっ……!あたしはこんなものいらないわよ!」
 言いたいだけ言ってしまうと、あたしは渾身の力を込めて、あたしに向かって未だ躊躇いがちに差し出されている紙包みを、それを持つ雪洞の手ごと力いっぱいはたいた。
 パンッ、と何かが小爆発を起こしたような音が起こり、我に返った。音があたしの中で起こったのか外で起こったのか、一瞬、判断することができなかった。音の正体に気がつくと、自分のしでかしてしまった事の重大さに、ザッと音を立てて体中から血の気が引いた。それはあたしの手が、雪洞の白くか細い手を、力の限り音だった。世界中から音が消え、ウサギ人間の紙包みが夏の高い空に舞うのが、スローモーションのようにあたしの瞳に映った。
 雪洞の、空を映して青みを持った鏡のような眼球にも、それは映っていた。そこにはあたしの行動に対する驚きも、差し伸べた手を拒絶されたかなしみも浮かんでおらず、ただ、空っぽだった。あたしには雪洞が何を考えているのか、まるでわからなかった。
 かなしいまでに軽い、しかしあたしたちにとっては重大な意味を持つ音と共に、ウサギ人間が石畳の地面に叩きつけられた瞬間、あたしの世界には音という音が舞い戻ってきていた。耳障りなセミの声が悲鳴のように木霊し、反響し、あたしを責め立て、上空にある抜けるような青さが、粘性の渦を描き、ねっとりと醜い本性を晒して歪んでいくのを見た。首筋に滲む汗が暑さによるものなのか、それとも冷や汗であるのかさえ、判然としなかった。
 先に動いたのは雪洞だった。あたしは大きく目を見開いたまま、雪洞があたしの方を見向きもせず、目の前を横切るのを見つめていた。スカートの裾が地面にくっつくのも気にせず、雪洞はウサギ人間の傍らにしゃがみ込んだ。それから、横たわるウサギ人間を大切そうにすくい上げ、紙包みについた土ぼこりを白い指先でそっと払った。
「ごめん、雪洞……、」
 立ち尽くしたまま、あたしはどうすることもできず、呆然と呟いた。あたしが腑抜けて突っ立っている場所から、雪洞の表情を窺い知ることはできなかった。こんな形で、彼女の名前をはじめて呼ぶことにはなりたくなかった。一過性の衝動に任せて、取り返しのつかないことをしてしまった。
 かわいそうな雪洞。ちょっとやり方を間違えてはいたけれど、きっと雪洞なりに精一杯、あたしに親愛の情を示したつもりだったに違いないのに。だけど雪洞もいけないのだ。あたしのように卑屈で、性根のねじ曲がった女に、彼女のような美しいものがどれだけ眩しく、輝かしく、そして妬ましく思えるかも知らず、声をかけるから——心のどこかでまだそんなことを思っている自分に、あたしは心底嫌気が差した。
 雪洞がおもむろに立ち上がった。ウサギ人間の紙包みは、大事そうに手に持ったままだった。あたしはただでさえ口の悪い彼女から、どんな非難の言葉が飛んで来るのかと身構えた。あるいは普段は気の強い雪洞が、今にもはらはらと真珠の涙をこぼして泣き出してしまうのではないかとも考えた。けれど、振り返った雪洞の表情は、あたしが想像していたどんなものとも違っていた。雪洞は、さっき画廊のお姉さんに見せたのよりも、ずっと満面の笑顔だった。そして、叫んだ。
「走ろう、雪代ゆきしろ!」
 一瞬、何が起こったのかわからなかった。
 雪洞は、今までとは比べ物にならない、到底女の子とは思えないような強い力で、あたしの手をぐんと引いた。突然の事態に、あたしは石畳の凹凸おうとつに靴のヒールを引っかけ、足をもつれさせて危うく転びそうになった。ところが次の瞬間、体がふわりと浮遊感に包まれたかと思えば、あたしは体勢を持ち直していた。えっ、と思って顔を上げた時には、もうありとあらゆるものが物凄い早さで、ビュンビュンあたしたちの後方へとすり抜けていくところだった。バルブ撮影された星景写真のように、あたしは町や人を残像としてしか認識できなかった。反対に町や人の方も、あたしたちのことを影のようにしか認識できていないのかもしれなかった。
 靴があたしたちを導いている、とあたしは思った。だってあたしは、というよりも人類は、たぶん陸上競技の選手だって、こんなに早くは走れない。あたしと雪洞のフラミンゴのオープントゥ・パンプスは、魔法の靴だったのだ——、
 町を抜け、今度は目まぐるしく流れていく翠緑と木漏れ日とに目を奪われながら、あたしはぼんやりと思った。
 無意識の内に、半ばすがるようにして、雪洞の手を握り締めていた。突然、身に降りかかった人知を超えた出来事に、少し怖くなったのかもしれない。雪洞は振り返らなかったけれど、それに応えてあたしの手を、強く握り返してくれた。そうして少しの間、あたしたちはひとつの連なりとなって駆ける、地上の二つの彗星となった。
 フラミンゴのオープントゥ・パンプスはやがてゆっくりと速度を落とし、いつしかあたしたちは自らの力で、森の中の勾配を下っていた。あたしの住む町ではアブラゼミ、次いでミンミンゼミが幅を利かせていたけれど、この辺りではヒグラシの物憂い唄が圧倒的に優勢だった。
 同じセミなら、アブラゼミやミンミンゼミより、あたしはヒグラシが好きだった。アブラゼミのシャアシャアという鳴き声は聞いているだけで暑くなってくるような気がするし、何よりヒグラシは綺麗だ。羽は透明で、音を共鳴させる腹部は光の透けるような緑色で、まるで森の宝石みたい。
 ヒグラシの森を抜けて視界が拓けると、あたしたちはどちらともなく立ち止まった。目前に広がるのは、覚えのある風景だった。
「懐かしい?」
 雪洞が尋ねた。二階建て画廊の前で出会ってから、この場所に辿り着くまでの一連のやり取りがうそのように、その口調は優しかった。あたしたちは手を繋いだままだった。
「うん、」
 いたいけな子どもの頃に舞い戻ってしまったかのように、あたしは素直に頷いた。あたしの住んでいる町から、電車を乗り継いで三時間はかかるはずなのに、ほんの数分駆けただけで辿り着いてしまったことには、不思議と何の疑問も抱かなかった。
 そこは山間の、どこまでも細く長く続く、田園風景だった。
「中学の三年に上がる頃、お婆ちゃんが死んじゃって、それまでは毎年夏休みになるとお婆ちゃんちに遊びに行ってたの」
 昏い記憶の海原から、揺らめくそれを拾い上げ、なぞるように、あたしの口は勝手に言葉を紡ぎ出していた。
「畑を渡る長い道を、歩いていくの。畑にはスイカも植わってて、朝早くに行くと、割れたスイカにカブトムシやクワガタがたくさん集まっているの。畑を抜けて、森の勾配を下って、お婆ちゃんちに来るといつも、この田んぼ一帯、あたしの遊び場だった。水路の泥の中にいるカエルやドジョウをすくったり、イナゴやヒグラシを捕まえたり。もう少し先に行くとガマの穂も生えてて、爪を立てると中からモコモコ綿毛があふれてくるのが、面白かったなあ。ちょっと山に入ると、ミョウガやシソも採れるんだよ。お婆ちゃんが作ってくれたミョウガのお味噌汁、おいしかった。山にはカラスウリもたくさん生えてたんだけど、花は最後まで図鑑でしか見られなかった。カラスウリの花はね、物凄く早起きしないと見られないんだよ。レースみたいに綺麗な花で、見たいから起こしてって言ってるのに、お婆ちゃんはいつも起こしてくれなくて、ひとりぼっちで朝の散歩に行っちゃうの。一度でいいから、見てみたかった。でも、一番好きだったのは——、」
 あたしは振り返り、無数に咲き誇る鮮やかな花を仰いだ。
凌霄花のうぜんかずら、」
 ああ、そうだ。フラミンゴのオープントゥ・パンプスじゃなかった。スカーレットでもペパーミントでもなく、この色でなくてはならなかった理由。それはこの靴が、お婆ちゃんの家のそばにある田園の、この場所に咲く、凌霄花の色をしていたからだったのだ。燃え上がるフランベのような、鮮やかなピンクオレンジ。意思を持った色。
 町中や公園でも凌霄花の花を見かけることはあったけれど、その田園に何故か一株だけつるを伸ばしていた凌霄花はひと際鮮やかに、その名の持つ〝空をも凌ぐ花〟という意味にふさわしく、樹木を伝って高く高く、見上げんばかりに咲いていた。あたしとお婆ちゃんはいつも、凌霄花の咲く木陰に荷物を置いて心ゆくまで田んぼ遊びをし、遊び疲れると木陰で休息を取り、お婆ちゃんと一緒に家で作ったお弁当を食べた。花は日に日に咲き変わり、あたしとお婆ちゃんの目を楽しませた。一度など、その木陰でお弁当を食べていたら、あたしたちのすぐ傍らを虹色にきらきら光るタマムシが素早く飛んで横切り、あたしは歓声を上げた。お婆ちゃんはタマムシに気がつかず、〝子どもにしか見えない、森の妖精だったのかもしれないね〟と顔をくしゃくしゃさせて笑った。あたしがその森でタマムシを見ることは、それきり絶えて二度となかった。
「ねえ、雪代。あんたは小さい頃、道端の石ころにも意味を見出すような子だったよね。丸い石、すべすべの石、平べったい石、黒い石——、」
 ふと、背後に小さな子どもの足音を聞いた気がして、あたしははっと振り向いた。
 そこには誰もいなかった。代わりに、雪洞の言った通りの石が、あたしたちのすぐ後ろに、左から順に綺麗に整列して並んでいた。丸い石、すべすべの石、平べったい石、黒い石。誰が並べたのかなんて、わかりきっていた。それは幼い頃のあたしだった。
「石ころにさえ意味を見出せるあんたが、どうして他人のいいところには目を向けようとしないの?」
 雪洞の言葉はいつだって、あたしの胸を深く抉る。疵に疵を重ねるように。
「だからこそ、よ」
 答えるあたしはきっと、苦虫を噛み潰したような顔をしていたに違いない。
「あたしは人間が嫌いなの。だから石ころくらいしか話し相手がいないの」
「本当に?」
 雪洞は鋭くあたしの言葉を切り裂いた。握った手はそのままに、並べられた石ころには背を向けて、雪洞は目の前に果てなく広がる田園をまっすぐに見つめていた。長いまつげが日差しを集めて、金色に淡くけぶっていた。
「本当に嫌いだって思ってる?本当は好かれたかったんじゃないの?にだって」
 あの人たち。眼科に勤める人たち。あたしがつまらないと、どうでもいいと、見限っていたはずの人たち。
 けれどあたしは雪洞の言葉を、否定することができなかった。それが答えだった。
「人が嫌い。そんな自分が嫌い。自分が嫌いな自分を人に好いて貰いたいと思う。それってすっごく、わがまま」
 あたしは何も言い返せなかった。だってそれは、その通りだと思ったから。悔しいけれど、雪洞の言うことは何から何まで的を得ていた。見限られていたのは、あたしの方。自分が嫌いで、そんな自分を他人になんか見せたくなくて、そうこうしているうちに世界にはどんどんあたしの入り込む余地がなくなっていく。そんな自分を特別なのだと思い込むことで、あたしはあたしを守ろうとしてきたのだ。
 あたしはどんどんうつむいて、とうとう真下を向いてしまうくらいに、へんてこな格好になった。伏せた視線の先には、お揃いのオープントゥ・パンプスが並んでいた。凌霄花の、オープントゥ・パンプス。
「周りの人を石ころ以下にしか思えない逸町雪代。どこに行っても居場所のない逸町雪代。ねえ、いつからそんなふうになっちゃったんだろうね。昔はそんなんじゃなかったのに」
「——大人になるって、そういうことだわ」
 絞り出すように、あたしは言った。
「違うわ」
 あたしの言葉はまたしても、雪洞によってあえなく否定された。
「あんたはまだ全然、大人じゃない。だけどもう子供でもいられない。それって、いびつね。凄くいびつなことだわ」
「そうよ。だから、そうだって言ってるじゃない。あたしはいびつな人間なのよ」
 あたしはもう、沸き立つ苛立ちを隠そうともしなかった。
「あたしはそうは思わない」
 雪洞はきっぱりと言った。
「石ころにさえ意味を見出せる。それはあんたの才能だって、あたしは思う」
「そんなの、才能って言わない」
「才能よ」
「昔の話だわ」
「そんなことない。だってあんたはあたしを見つけてくれた。パラレル・ワールドのあたしを」
 あたしはびっくりして雪洞を見た。いつの間にか雪洞も、あたしを見ていた。
 どうして雪洞がパラレル・ワールドのことを知っているんだろう。あたしだけの秘密だったはずなのに。先輩たちには勿論、誰にも、雪洞にだって、パラレル・ワールドのことは話していなかったはずなのに。
「あたしも——あたしもそう思ってた。あたしたち、まるでパラレル・ワールドを生きてるみたいだって」
 あたしは突如として目の前に舞い降りたこの上なく素敵な偶然——必然と言ってもいいかもしれない——に、興奮し、息巻き、まくし立てるように喋り出していた。
「凄いわ、雪洞。これって凄いことだわ。だってあたしたち、おんなじロッカーを使って、おんなじ靴を履いて、おんなじことを考えていたんだもの。まるで運命みたいに。ねえ、あたしと雪洞って、なんだか似ているみたい。あたし、あんたとなら——、」
「だめだよ」
「え、」
 思いがけない拒絶に、あたしは狼狽した。雪洞が酷くさみしそうな顔をしているのが、なおのことあたしを困惑させた。そんなにさみしそうな顔をするのなら、どうしてそんな冷たい言葉で、あたしを拒絶するんだろう?
「あたしと雪代は似てるんじゃなくて、同じなの。相似じゃなくて合同。おおよそじゃなくて、完全に等しい。まるで、じゃなくて、パラレル・ワールドそのものなのよ。あたしの言ってる意味、わかる?」
「——わかんない、」
「だよねえ」
 雪洞は途方に暮れたように笑った。雪洞がそんなふうに笑うところを、あたしはその日はじめて目の当たりにした。こんな表情も、もう二度と見られなくなってしまうのかもしれない。そう考えると、たまらなかった。あたしは本当はわからないのではなくて、わかりたくないだけなのかもしれなかった。
「つまりね、同一であるあたしたちがこうして話をして、一緒に過ごせるのは今だけで、ずっと一緒にはいられないってこと」
 あたしは雪洞を見つめた。雪洞もあたしを見つめた。あたしはあたしを見つめていた。それはつまり、そういうことであるのだった。
「ねえ、ドッペルゲンガーって知ってる?この世のどこかにいる、もう一人の自分。出会ったら死んでしまうの。おかしいよね、自分自身を完璧に理解してくれる人が、せっかくもう一人いるっていうのに。そんな人にようやく会えた途端に死ななくちゃならないなんて、神様は酷いよね。でも、だから、パラレルワールドを生きているあたしたちも、一緒にはいられない。本来は交わるはずじゃなかったのよ、あたしたち」
「じゃあ、どうしてあたしたちは出会ったの」
 震える声で、あたしは尋ねた。避けがたい別れが、今まさに近づきつつあることを、あたしは直感的に感じ取っていた。泣いてしまいたかった。けれど、そんなあたしの気持ちを吹き飛ばすかのように、底抜けに明るい声で、雪洞は叫んだのだった。
「さみしいから、会いにきちゃった!」
「——バカじゃないの、」
 雪洞はくしゃりと笑った。泣いているようにも見えた。それから突然伸び上がって、あたしのまぶたにキスをした。あたしは女の子が好きだけれど、女の子にキスをされるのなんて生まれてこの方はじめてのことだった。雪洞の唇はマシュマロのようにやわらかくて、今にも大気に溶け入って、消えてしまいそうだった。人間が嫌いなのに女の子が好き。これも矛盾だ、とあたしはおかしくなった。
「ねえ、あんたのまぶたは気持ちがいいね。まるで雪解けのあとの、桜の花びらみたい」
 秘密の呪文のようにそう囁きながら、雪洞はあたしの手に、さっきの紙包みを握らせた。玻璃の涙をこぼす、少し滑稽なウサギ人間のピエロ。それは確かに、雪洞の手からあたしへと手渡された。それがあたしたちの、お別れの合図だった。
 行貝雪洞。あたしよりもっとへんてこな名前の、さみしがりで、構ってほしがりな、もう一人のあたし。
 さよなら。


 気がつくと、あたしは石畳の坂を上った天辺の二階建て画廊の前に立ち尽くしていて、道行く人はさも迷惑だ、邪魔だという顔をして、あたしの横をすり抜けて行くのだった。
 あたしはぼんやりと、辺りの景色を見渡した。いつもと同じ、あたしの住む町の風景だった。そこにはのどかな田園も広がっていなければ、聞こえてくるセミの声もアブラゼミやミンミンゼミのものばかりだったし、勿論あたしとお揃いの靴を履いた、とてつもなく綺麗で可愛い女の子の姿も、どこにもありはしないのだった。
 この炎天下にやられて、白昼夢でも見たのだろうか、と思ったけれど、あたしの手には確かに、画廊の名を刷ったクラフトの紙包みが握られていて、目の前のショーウィンドウからも、ウサギ人間のピエロは姿を消しているのだった。
 あたしは性急に、水玉のマスキングテープを引きちぎらんばかりに紙包みを開けた。一刻も早く中身を確かめたかったというのもあるし、さっき自分がこっぴどく、ウサギ人間のピエロを地面に叩きつけてしまったことを思い出したからだった。
 紙包みから出てきたウサギ人間は、ショーウィンドウの向こう側にいた頃と何ら変わらず、玻璃の涙をこぼしていた。
 よかった、壊れてない……。
 ほっとしたのもつかの間、あたしは手早く紙包みに封をし直して、ポケットに押し込んだ。今にも胸を打ち破ってしまうのではないかという程、心臓はどきどきと高鳴っていた。あたしの手元にウサギ人間がいるということは、つまり、雪洞という少女も、二人で彗星となって森を駆け抜けたことも、凌霄花がつるを伸ばす懐かしい田園風景も、夢なんかではなかったのだ。そうとわかると、あたしは急いで二階建て画廊のドアを開けて、中に向かって呼びかけた。
「あの、すみません!」
「はい?」
 画廊のお姉さんはさっきと変わらずそこにいて、ちゃんとよそゆきの笑顔で出迎えてくれはしたものの、あたしのことを怪訝に思っているのが見て取れた。あたしと雪洞が彗星となり、辿り着いた田園で過ごした時間は、あたしの今過ごしているこの時間とは全く異なる次元で起こった出来事で、あたしが二階建て画廊で雪洞のわがままに付き合ってブローチを買ってから、まだいくらも時間は経っていないのかもしれなかった。
「女の子を知りませんか。あたしと一緒にいて、あたしとおんなじ靴を履いてた子……」
「え?さあ、そんな子は見ていないと思いますけど……」
 お姉さんは不思議そうに首を傾げた。それだけで、もう十分だった。お姉さんの言葉を全部聞き終える前に、あたしはもう、次の場所へと無我夢中で駆け出していた。ウサギ人間のピエロの他に何か少しでも、雪洞がその存在の痕跡を残していないか、たとえばおとぎ話のシンデレラのように、凌霄花の靴の片方でも落としていないか、見つけようとあたしは必死だった。
「すみません!」
 ノブを回すというただそれだけのことさえ、今はもどかしく思えた。物静かな喫茶店に、けたたましいドアベルの音と共に駆け込んできたあたしに、その一瞬、お店の中にいる全ての人の視線が集中した。けれど、すぐにみんな何事もなかったかのように、広げた新聞で顔を覆い隠してしまったり、いそいそと書き物の続きをやり始めたり、わざとらしく咳払いをしてみたり、とにかく各々が素知らぬふりを決め込むことにしたようだった。
 マスターはちょうどカウンターの奥でコーヒーを淹れているところで、やっぱり一瞬は闖入者であるところのあたしに注目したようだったけれど、それ以上はあたしにさほどの興味を示した様子もなく、再び手元のコーヒー・メーカーに視線を落としてしまった。
 マスターが他のお客さんたちと圧倒的に違っていたのは、彼の動作がとても自然であるという点だった。美しい、と言ってもいいかもしれない。マスターがあたしを拒まずにいてくれるであろうことを、あたしはわけもなく確信することができた。来る者は拒まず、かといって去る者を追うこともしない。受容と無干渉の共存。そういう存在として、マスターはそこにいた。それはマスターがマスターたる所以であるのかもしれなかった。あたしはカウンターにへばりつかんばかりに、マスターの方へと身を乗り出した。
「あのっ、さっき、あたしと一緒、にっ、お店に入った女の子、覚えていますか、」
 全速力で走ってきたので、あたしは息もきれぎれだった。あたしの靴は、もう彗星の魔法を起こしてはくれなかった。あたしが凌霄花の記憶を、取り戻してしまったからだろうか。あるいは雪洞と一緒でなくては、魔法は発動しないのだろうか。
「いいえ、あなたは一人でいらっしゃったと思いますよ」
 あたしの方を見ないまま、マスターはやはり、どうにか聞き取れる程度の声で言った。ペーパーフィルターの中で、コーヒーの粉は魔法の粉のようにむくむくと膨らみ、ひたひたと濃い闇色の液体をサーバーに落とした。マスターの節くれ立った手によって注がれる白湯は、ひとつの意思を持って不思議な陣形を描き、その手つきは洗練されていて、もう何年も、もしかしたら何十年も、マスターがこの一連の動作を繰り返してきたことが、たったそれだけのことからも窺い知れた。
「——そうですか、」
「ですがね、お嬢さん」
 しょげ返ってカウンターから離れていこうとするあたしを、マスターはすかさず呼び止めた。
「私の言っていることが本当に正しいとは限らない。あなたの言っていることも、私の言っていることも、実は両方正しいのかもしれない。あなたはあなたの見たものを信じれば、それでいいんじゃあないですか」
 普段あまり喋ることのないマスターの声は、ぼそぼそとこもっていて、聞き取りづらかった。けれどあたしは、マスターがあたしにくれたその言葉に、感銘を受けていた。あたしはあたしを信じてもいいのだ。そんな当たり前のことが、目新しく、新鮮なことのように思えた。マスターは相変わらず、コーヒーをドリップするという一連の工程に、彼の持ちうる全神経を注ぎ込んでいたけれど、マスターという人の本来持つあたたかさに、あたしは体中を包み込まれ、抱擁されたような気がした。
「——ありがとうございます」
 あたしは深々と頭を下げた。マスターは、低く唸るような声で応じただけだった。
 古びたドアベルに送り出されて、あたしは店を出た。二階建て画廊とマスターの喫茶店を巡り終えてしまうと、あたしの進むべき道のりはもうあとひとつしか残されていなかった。
 心は既に決まっている。あたしたちのパラレル・ワールドのはじまりの場所。
 懐かしい、あの雑居ビルへ。


「雪洞——雪洞を知りませんか!」
逸町そりまちさん!?」
 数ヶ月ぶりに姿を現したかと思えば、挨拶もそこそこに、気でも違ったかのようにそうまくし立ててくるあたしに、先輩たちは度肝を抜かれた様子だった。患者さんたちも、呆気に取られてあたしを見ている。
 その日の客の入りはぼちぼちといったところで、コンタクトレンズショップに併設された眼科であるという特性上、重症の患者さんも特には見受けられなかった。
「雪洞って、お雛飾りのあの雪洞?どうしたの、急に」
 先輩たちの中でも古参の、ほっそりとしてはいるがいつも毅然と背筋の伸びた女性が、あたしとの会話を買って出た。
「あの、ロッカールームを!あたしのロッカーを見せて下さい!」
 雪洞のことを一から説明するよりも、自らの目で確かめる方が手っ取り早いであろうことを瞬時に悟ったあたしは、理由は訊かないでほしい、とにかく女子ロッカールームの、かつてあたしのものであったロッカーを見せて貰えればそれでいい、という意思を前面に押し出し、真剣そのものといった剣幕で言い募った。
「それは別に、構わないけれど……」
 リーダー格の彼女から了承が取れると、あたしはすぐさま、
「失礼します!」
 と声をかけて引き戸を開け、診察室を颯爽と横切った。勤めていた頃、あたしは寡黙を通り越して無言であったので——勿論、仕事をする上で最低限必要なやり取りを渋ることはなかった——他の先輩たちはあたしの剣幕にすっかり萎縮して、受付の隅っこで束になり、揃いも揃って身を縮こまらせていた。
「あれえ、逸町さんじゃない」
 ロビーから診察室を跨いだ先の女子ロッカールームでは、ちょうど一人の先輩が休憩を取っているところだった。
 あたしは思わず、顔をしかめそうになった。そこにいたのが、先輩たちの中でもあたしがひと際、嫌悪感を抱いていた女だったからだ。
 代診のデブ医者には遠く及ばないものの、女はふくよかで、ピンク色のナース服の腰や胸周りをいつもはち切れんばかりに膨らましていた。そのくせ休憩時間になると、ナース服の胸元をみっともなくはだけ、セルライトの浮き出るようなふくらはぎを晒してソファの上にお行儀悪くあぐらを掻き、お化粧直しに夢中になるのだった。
 紅を塗りたくったおしゃべりな唇が、彼女という人間の軽薄さの全てを表しているかのようで、あたしは大嫌いだった。どんなに分厚く化粧をして取り繕ったところで、体中を醜く覆う肉の塊は誤摩化しようがないぞ、白ブタめ、とも密かに思っていた。
 女はその日も、胸の谷間も露わに、鏡を片手に目をひん剥いて、お化粧を直すのに忙しそうだった。その姿に、品性の欠片もなかった。
「——お久しぶりです」
 あたしと雪洞の聖域を冒されたような気がして、あたしの薄っぺらな胸にはふつふつと怒りが湧き起こった。それでもなるべく毅然とした態度で挨拶をして、あたしは女の前を横切り、かつて自分のロッカーだった場所へと向かった。左手の、奥から二番目。
「どうしたの。今更忘れ物ぉ?」
 放っておいてくれればいいものの、女はお化粧の手は止めぬまま、間延びした声であたしに追い打ちをかけてきた。不快だった。あたしは女の問いかけには答えず、左手の奥から二番目のロッカーを、力任せに開けた。
 あたしは呆然と、その場に立ち尽くした。
 そこには、のだ。
 ナース服も、カーディガンも、ナースシューズも、誰かがこのロッカーを使っていることを思わせる形跡は一切なく、空っぽの空間だけがロッカーの内から溢れだし、この数ヶ月の間誰にも開けられていなかったせいかすっかりこもった空気と共に、あたしの前に晒し出されていた。
「ああ、逸町さんのあとに入る人、なかなかいい子が見つからなくてねえ」
 訊いてもいないのに、あたしの背後でおしゃべり女は勝手に喋り出した。
「シフトはカツカツだけど、まあ回せないこともないし、お店の移転の話も出てるから新規の子の採用はそれからでもいいかなって方向に最近は話が、」
 ——あたしはもう、女の話を聞いていなかった。
 かつてあたしの使っていたロッカーは、ナースシューズを入れるために、仕切り板によってその内部を上下に隔てられている。その仕切り板の影に隠すようにして、それは置かれていた。あたしはかがみ込み、そっと一枚ずつ、それを拾い上げた。
 五〇〇円玉が一枚と、一〇〇円玉が三枚と、五〇円玉が一枚。足すことの八五〇円。
 それはマスターの喫茶店で雪洞が頼んだ、ホットコーヒーとホットケーキを合わせた分の代金だった。そのことを理解した途端、体中から力が抜けて、あたしはへなへなと、その場にへたり込んでしまった。
 〝あとで返すわ〟と悪びれもせずに言った雪洞のすまし返った声が、耳の奥に蘇ってくるような気がした。あたしは胸がいっぱいになった。戯れのような口約束を、あの子は律儀にも果たしてくれたのだ。あたしたちのはじまりの、この場所で。
「——ウサギの金も払えよ、バカ」
 誰へともなく、あたしは呟いた。そう、ロッカーの中のどこを見ても、置かれているのはホットコーヒーとホットケーキの分だけで、ウサギ人間の分のお代は、どこにも残されていなかったのだった。笑い出したいような、泣き出したいような、へんな気分だった。律儀なんだかなんなんだか、最後までよくわからない子だった。握り締めた硬貨のひんやりと冷たい温度が、理不尽に、そして無邪気にあたしの手を引く雪洞の、低い体温を思い起こさせた。
 バカな雪洞。コーヒーの一杯とホットケーキの一皿くらい、奢ってあげたってよかったのに。こんなものを残してくれるよりも、雪洞がそばにいてくれた方が、ずっとずっとよかったのに。
 約束の成就。それはすなわち、暗黙の永訣を意味する。
「あっ、そうだ。逸町さん、そろそろナース服、返却してって緒方さんが——逸町さん?」
 お化粧直しに夢中だったおしゃべり女は、あたしがロッカーにすがりつくように顔を伏せ、肩を震わせていることに、ようやく気がついたようだった。いつの間にか涙がぽろぽろと溢れ出して、あたしの頬や、硬貨を握り締めた手を濡らしていた。声もなく泣きながら、あたしは背後で女が立ち上がる音を聞いた。女はあたしに近づくと、そっと手のひらをあたしの背中に宛てがった。大きくて、あたたかくて、やわらかな手だった。
 あんなにもおしゃべりだと軽蔑していた女が、その間中ずっと、ただのひと言も言葉を発さなかった。今、あたしが言葉を必要としていないことを、彼女はあらかじめ備わった本能によって、わかっているかのようだった。ああ、この人はこんなにも静謐な優しさで、人を包むこともできるのだと、あたしはその時はじめて思い知った。おおらかな彼女の、それが才能であるのだと思った。そう思うとますます涙が溢れてきて、止まらないのだった。
 女に背中をさすられ、世界から次第に薄らいでいく雪洞の面影をどうにか捕らえようとするかのように、強く強く硬貨を握り締めたまま、あたしはそうしてしばらく泣いた。そろそろ次の勤め先を見つけなくてはならないな、と場違いにも考えて、少し笑った。