ふたご星変奏曲

企画:Familiar Company
作者:饗庭璃奈子(あいばりなこ)


ナナコとウメは、小学二年生のふたごの姉弟。
ある初夏の午後、毎週水曜日におやつを食べにいく〝いちぢく屋さん〟の店先で、ナナコはウメに信じがたい告白をされる。
──ぼくの前世はねこだったんだ。
小さな奇跡と共に綴られる、いのちの輝きの物語。


古屋七子ふるや ななこ
通称ナナコ。ふたごの姉。父親に似ておおざっぱでざっくばらん、細かいことは気にしない性分。周囲からはウメとセットで〝へんなふたご〟扱いされることもあるが、本人はそれを心外に感じており、年相応のごくふつうの女の子を自称している。どちらかといえば勝気な性格。ナナコ自身も忘れてしまった、とある秘密がある。本よりまんが。
古屋梅春ふるや うめはる
通称ウメ/ウメくん。ふたごの弟。シャイで寡黙、母親に似て神経質なところがあるが、なんだかんだでちゃんと子ども。趣味は読書と勉強。ナナコ曰く、〝たとえばほかの男の子たちが、カエルやカタツムリや子いぬのしっぽでできているとしたら、ウメくんを構成するものの中にはお砂糖やスパイスもひとつまみ、混ざり込んでいるに違いない〟。ねこであった前世の記憶を持つ、特異な境遇の持ち主。
古屋惣一ふるや そういち
ふたごの父。ふたごが小二のとき、五十一歳。
おおざっぱでざっくばらん、おおらかな性格だが、本当はとても優しく、ちゃんと人の立場になって物事を考えられる人で、心を病んだ妻をずっと支えてきた。趣味はゴルフと美術鑑賞(自称)で、ビールと茹でた枝豆と動物をこよなく愛するサラリーマン。
古屋初美ふるや はつみ
ふたごの母。ふたごが小二のとき、四十三歳。
世間一般でいうところの箱入り娘。過去の過酷な体験から、双極性障害を患っている。多少気分の浮き沈みが極端なところはあるものの、今ではだいぶ病状も落ち着いて、服薬と月に一度の通院を除けば、健康な人とほとんど変わらない。とても美人。
ヒデヨシ
小1と小2のときにふたごとクラスがいっしょで、小5のときに再び同じクラスとなる。ウメとはときおり話しているが、ナナコはほとんど言葉を交わしたことはなかった。両親が離婚している。
001 ウメ/小2

ぼくの前世はねこだったんだ。

002 ナナコ/大人 N

ウメくんがそのひみつをわたしに打ち明けてくれたのは、小学二年生の五月、よく晴れた初夏の午後、水曜日のできごとでした。どうして水曜日だなんて、そんな細かいことを覚えているのかというと、わたしたちがちょうどそのとき、〝甘味処いちぢく〟──通称〝いちぢく屋さん〟の店先で、アイスクリームを食べていたからです。
毎週、水曜日がやってくると、わたしたちの足でも家から五分とかからない、うす暗い店舗に出向いては、暑い時期にはアイスクリームやかき氷、寒い時期にはおしるこなんかを食べることは、わたしたちにとってもっとも大切な決まりごとのひとつでした。

003 ナナコ/小2

ウメくんは、たまにおかしなこと言うね。

004 ウメ/小2

本当だよ。

005 ナナコ/大人 N

地につかない足をぶらつかせて、遠くの空を眺めて、きんと冷たいアイスクリームを無心に舐めていたわたしは、ふと手を止めてウメくんをふり向きました。
あ、海が見える、とウメくんの顔を見るより先に私は思います。今日は天気がいいから、坂の向こうの三角の海も、青い宝石のようにぴかりぴかりと笑っています。

006 ナナコ/小2

ねこのときも、男の子だった?

007 ウメ/小2

ううん、メスのねこ。

008 ナナコ/小2

へえ、メスのねこ。

009 ナナコ 大人/N

ウメくんはふり向きませんでした。黙々とアイスクリームを食べる横顔が、ちらりと見えます。まっすぐなまつげが、よく見える角度です。
うす紅色とクリーム色のマーブル模様がきれいなアイスクリームを、真っ赤な舌がべろりと舐めて、以前に星のずかんで見たどこかの惑星に、それはちょっぴり似ています。それはいちぢく屋さんが売りにしているイチジクのアイスクリームで、ウメくんはイチジクのアイスクリームがとても好き。わたしはウメくんが何か食べているところを眺めているのがとても好き。中でもイチジクのアイスクリームを食べているウメくんは、うんとすてきです。
ウメくん、星を食べている。わたしはそう思います。

010 ナナコ/小2

男の子の気分と女の子の気分って、やっぱり、違うもの?

011 ウメ/小2

うーん。それはちょっと、なんとも言えない。女の子っていっても、ねこだったし。人間でいるのとはまた、勝手が違っていたっていうか。

012 ナナコ/小2

そっか。ねこだもんね。

013 ウメ/小2

うん。ねこだったから。

014 ナナコ/大人 N

わたしたちはそれきり互いに押し黙り、それぞれアイスクリームを食べました。そのあいだじゅう、わたしはウメくんが人間の男の子として生まれる前の姿について、思いを馳せました。どんな毛並みをしていたのかとか、野良ねこだったのか家ねこだったのかとか、人間のウメくんはイチジクのアイスクリームとお母さんのハンバーグが好きだけれど、ねこのウメくんはどんな食べ物が好きだったのかとか、そういったことを。
でも、そのどれをも、わたしは口にはしませんでした。今日の話は、これでおしまい。そういった暗黙のルールや、音のない言語のようなものを、わたしたちは自然と、共有することができたのです。ウメくんとのあいだに訪れる沈黙の心地よさも、わたしは好きでした。

015 ウメ/小2

帰ろっか、ナナコ。

016 ナナコ/小2

うん、帰ろう。

017 ナナコ/大人 N

ウメくんはほほ笑んで、わたしに手を差し伸べます。
たとえばけんかをしていても、水曜日にいちぢく屋さんでおやつを食べたあとには手を繋いで帰るのが、わたしたちの決まりごとなのです。わたしは異国のお姫さまにでもなったような気分で、差し伸べられたウメくんの手をうやうやしく取ります。繋いだ手の向こう側には、まるで鏡のようにわたしとそっくりおんなじ顔が、いつだってそこにあるのです。

***

018 ナナコ/大人 N

わたし古屋七子ふるやななこと、ウメくんこと古屋梅春ふるやうめはるは、ふたごです。わたしが先に生まれた姉で、ウメくんがあとに生まれた弟。わたしたちは二卵性双生児、本来なら異なる顔に生まれてくるはずのふたごなのですが、当事者であるわたしたちからしても、ウメくんとわたしの顔立ちはとてもよく似ています。今でこそ、男女で服装も髪型も違うから、ひと目で見分けもつくけれど、赤ん坊のころのわたしたちはそれこそ瓜二つで、

019 初美

わたしがあんまり欲張ったから、一卵性双生児を器用に男女に産み分けてしまったんじゃないかと、疑ってかかったほどだったのよ。

020 ナナコ/大人 N

とはわたしたちのお母さんの弁です。
小学二年生のそのころ、ウメくんがどこかわたしに対して〝よそよそしい〟ということは、わたしにとって密かな悩みの種となっていました。別段、仲が悪くなったとか、そういうわけではありません。
でも、何かは確かに変わりました。わたしたちが、幼い男女の姉弟としてはあまりにも、ことりのように睦まじすぎた、というのもあるかもしれないけれど、とにかくウメくんは、わたしといるとき何やらもの思いにふけって、うわのそらでいることが多くなりました。
そんなことははじめてでした。ふたごの弟であるという欲目を差し引いても、ウメくんは同じ年ごろのほかの男の子たちとは、ちょっと違ったところのある人でした。たとえばほかの男の子たちが、カエルやカタツムリや子いぬのしっぽでできているとしたら、ウメくんを構成するものの中にはお砂糖やスパイスもひとつまみ、混ざり込んでいるに違いありませんでした。

021 ナナコ/小2

ねえ、ウメくん、何かお話を聞かせて。

022 ナナコ/大人 N

わたしがそうねだると、ウメくんはいつも、まるで物語でも読んで聞かせるかのように、いろんな話をしてくれました。
たとえばあるところの、ねことことりのお話。

023 ウメ/小2

ねこはね、そのことりのうたがとても好きだったんだ。たった一度でいい、そのくちばしにふれてみたいと、願う程度にはね。だけどふたりは生涯、出会うことは叶わなかった。ふたりがねことことりである以上、仕方のないことさ。相容れない運命だったんだ。だからねこはいつも、遠くで耳をすませていたよ。晴れた日の空のように、すんだうた声にね。そう、ねこは雨が、きらいだったから。

024 ナナコ/大人 N

たとえばあるところの、夫婦のお話。

025 ウメ/小2

その女の人は、悪い男の人にとてもとても酷い目に遭わされて、おなかの中に望まぬいのちを宿してしまった。だけど、たとえ望まざるものだったとしても、一度は宿ってしまったいのちだ。女の人は赤ちゃんを産むか産まないかという、一世一代の選択を迫られることとなった。女の人はうんと悩んで、迷ったけれど、最後には産まないほうを選んだよ。産まないってことはつまり、そういうことだ。それだけじゃない。おなかの中の赤ちゃんのいのちを吹き消す手術のせいで、女の人はほかの多くの人たちよりも、赤ちゃんを産むことが困難な体になってしまった。のちに彼女は幸せな結婚をすることになるけれど、大好きな旦那さんとのあいだにできた最初の赤ちゃんも、生きてこの世に生まれてくることはなかったんだ。女の人は、毎日のように泣いて過ごしたよ。自分が殺してしまったあのときの子どもが、今も自分を恨んでいるに違いない。そう考えたんだ。そんな彼女を、旦那さんは雨の日も、晴れの日も、辛抱強く支えた。とても大変なことだったと思うよ、彼女は自分を責めるあまり、心を病んでしまっていたから。だからその女の人にとって、彼はいつまでもヒーローなんだ。たとえビールの飲みすぎで、おなかがぽっこり出ていたとしてもね。

025 ナナコ/大人 N

また別の日には、急にこんなことを言い出すときもありました。

026 ウメ/小2

ぼくはナナコとふたごでよかったと思うし、ふたごじゃなければよかったとも思う。

027 ナナコ/小2

どうして?

028 ウメ/小2

確かに今は誰よりも近い。だけどいつか、離れなくちゃならないときがくる。ぼくたちはあまりにも近くに生まれすぎた。

029 ナナコ/小2

……わたし、ずっとウメくんといっしょにいるよ?

030 ウメ/小2

(さみしそうに笑って)そういうわけにはいかないんだよ。

031 ナナコ/大人 M

そんな調子で、ウメくんの話はわたしにはちょっと難しくて、怖いようなものも多かったけれど、わたしはいつも、ウメくんの息づかいひとつ聞き逃すまいと、彼の話にじっと耳を傾けました。そして、そうした話は最後にはすべて、

032 ウメ/小2

ぼくはずっと、ナナコをさがしてたような気がする。

033 ナナコ/大人 N

という言葉で締めくくられるのでした。
それがここのところは急にふっつりと押し黙り、もの思いにばかり耽るようになってしまったものですから、わたしはわたしの大好きなウメくんも、とうとう女の子には理解できない不可解な生き物であるところの〝男の子〟に、身も心もすっかり染まりあがってしまったのではないかと、気が気ではなかったのです。
その矢先の、唐突な告白でした。ふしぎなことに、前世がねこであったことを彼が明かしたその日を境に、わたしたちは再び、元のことりのような睦まじさを、急速に取り戻していきました。 だけど今度はそれと入れかわるようにして、これまで〝よそよそしい〟の陰に息をひそめていた〝さみしい〟が、わたしの前に露呈されることとなるのです。でも、ウメくんの〝よそよそしい〟が〝さみしい〟に至るまでの一連の経緯をわたしが知ることになるのは、もう少しあとになってからのお話。
水曜日のいちぢく屋さん行きには、ウメくんがねこだったころの話を聞く、というおまけも、ついて回るようになりました。グレーのとらねこで、瞳の色は明るいグリーンにヘーゼルのまだら、名前はミミ。子ねこのときに捨てられて、雨の夜、段ボール箱の中で濡れそぼっていたところを仕事帰りの若い男の人に拾われて、そのまま家に居つくようになった。好きなものは蒸したササミと拾ってくれた彼の膝の上、苦手なものは雨とカブトムシ。

034 ナナコ/小2

えっ、カブトムシ?

035 ウメ/小2

(おかしそうに笑って)そう、カブトムシ。
今となっては笑い話なんだけどね。拾われてまだ間もないころ、彼が仕事から帰ってきて玄関のドアを開けたら、彼といっしょにカブトムシも家の中に入ってきちゃって、部屋じゅうをブンブン飛び回って、そのときは本当にもう、怖かった。だって、それなりにおっきくてかさもある、何か正体のわからない黒いものが、ハネやツノをそこらじゅうにガツガツぶつけながら、飛び回ってるわけでしょ、そりゃ、怖いわよ。わたしはそれまでカブトムシなんてものを見たことがなかったし、まだほんの子ねこだったしね。それでわたし、パニック起こして部屋じゅう駆けずり回って、彼の膝にしがみつこうとして爪を立てちゃったりなんかして、カブトムシがおとなしくなってもまだ彼のふところで、床の上をもそもそ這い回るカブトムシを警戒してた。彼は、ビールを飲みながら笑ってたな。お嫁さんは、早く外に出してよ、なんて文句を垂れていたっけ。

036 ナナコ/大人 M

そんなようなことを、本当にちょっとずつだったけれど、ウメくんは話してくれました。別に示し合わせたわけでもなかったけれど、お父さんとお母さんの前では、わたしたちはウメくんがミミだったころについての話をしませんでした。わたしはちょっとでも長くウメくんの話を聴いていたくて、なるべくゆっくりおやつを食べました。手を繋いで家路につくころには、ウメくんはもうミミ時代の話をしませんでした。

***

037 ナナコ/大人 N

前世と聞いて、わたしは何百年とか何千年とか、そのくらい昔のことを想像したのだけれど、ウメくんがミミであったのが実はそんなに遠い昔の話ではないことも、ほどなくしてわたしは知ることとなります。なんとウメくんは、わたしたちの両親であるところの古屋惣一ふるやそういち古屋初美ふるやはつみに、飼われていたねこだったのです。

038 ウメ/小2

正確に言うと、わたしは惣一さんのねこだったんだけどね。

039 ナナコ/大人 N

ミミだったころの話をするとき、ウメくんはしばしば女の子のような言葉づかいになります。それに気づくと慌てたような顔をして、

040 ウメ/小2

ぼくを拾ってきたのは、ほら、お父さんのほうだったから。

041 ナナコ/大人 N

と取り繕おうとするんだけど、

042 ウメ/小2

(わざと明るくおどけて)そのころ初美ちゃんはことりを飼っていたから、わたし、きらわれていたのよね。

043 ナナコ/大人 N

という具合に、すぐに元の言葉づかいに戻ってしまうのでした。ウメくんは昔から、女の子のような言葉づかいをすることが本当にときたまだけれどあったし、別にわたしはそんなこと、気になんかしてはいなかったのだけれど、今はれっきとした人間の男の子であるウメくんにとっては、それはそれは大変に、重大な問題であるようでした。

044 ナナコ/小2

でも、今はお母さん、ねこが好きだよ。

045 ウメ/小2

うん、最後にはちゃんとわかり合うことができたから。だけど、惣一さんがわたしを拾ってきた夜なんか、そりゃあもう、大げんかだったわよ。〝うちにはことりがいるのよ、それがわかってるのにどうしてねこなんか拾ってくるの。今すぐ元の場所に戻してきて、万が一にでも食べちゃったりしたらどうするの〟って。初美ちゃんの言うことももっともよね、ことりを飼っているのにねこを拾ってきちゃうなんて、惣一さんも無神経。だけど彼、今夜は雨だし、ひと晩くらいここに置いてやっても構わないだろう、おれがずっと見ているから、なんてのらりくらりとかわして、でも次の日も雨で、結局わたしはそのままずるずる古屋の家に居つく形になっちゃった。梅雨どきだったから、雨が多いのは当然なのに、ずるいわよね。

046 ナナコ/小2

(少し笑って)お父さん、今となんにも変わってないね。

047 ウメ/小2

(くすっと笑って)そうだね。でも、初美ちゃんはなかなかわたしに心を開いてはくれなかった。わたしが部屋に近づこうものなら、叫んでわめいて大騒ぎ。スリッパ持って追っかけ回されたりなんか、しょっちゅうよ。まあ、どうにかして初美ちゃんの部屋を覗いてやろうとしてた、わたしも悪かったんだけどね。ご近所さん、びっくりしてただろうなあ。彼女、そのころはまだ、ちゃんと産んであげられなかった赤ちゃんのことで深く傷ついていて、今よりずっと神経質になっていたから。ヒナから飼っていたそのことりが、子どものかわりだったのね。

048 ナナコ/小2

……。

049 ナナコ/大人 N

そう。わたしとウメくんには本当はもう一人、兄弟がいるはずだったのです。だけどその子は、生きてこの世に生まれてはきませんでした。
前にウメくんが話してくれた夫婦のお話、その話を聞いたとき、〝あれっ、それって、お父さんとお母さんの話にそっくり〟とわたしは思ったものだけれど、今思えば本当に、ミミだったころに知った、古屋惣一と古屋初美の過去だったのでしょう。
お母さんは赤ちゃんをきちんと産んであげられなかったことや、ほかのいろいろなことが原因で、〝ソウキョクセイショウガイ〟というものに心を冒されてしまいました。だから、ほかの多くの人たちよりもちょっとだけ、デリケートです。でも、お母さんにはお父さんがついているから大丈夫。わたしとウメくんはそう信じています。
クラスメイトのヒデヨシくんのお父さんとお母さんみたいに離婚してしまうようなこと、古屋惣一と古屋初美に限っては絶対に、ないのです。

《回想》

050 初美

……流れ星、あんまり見えないわね。

051 ナナコ/幼少期

……ねえ、お母さん。

052 初美

ん?どうしたの、ナナコ。

053 ナナコ/幼少期

わたしとウメくんのもう一人の兄弟は、生まれてこないで、一体どこに行っちゃったのかなあ?

054 初美

!!(小さく息を飲む)

◆沈黙

055 初美

……うーん、そうねえ。あの子はお空にのぼって、どこまでも高く高くのぼって、お星さまになったんじゃないかなあって、お母さんは思うわ。

056 ナナコ/幼少期

お星さま?

057 初美

そう、お星さま。この広い宇宙のどこかに、あの子はかえっていったの。そうしてナナコやウメや、お父さんやお母さんのことを、見守ってくれているの。お母さんは、そう信じてるの。

058 ナナコ/幼少期

そっかあ。(にっこり笑って初美を振り向く)それじゃあ、お母さんもお父さんもその子も、みんなさみしくないんだね。

059 初美

……!!
(顔をくしゃくしゃにして笑って)うん、そうね。
ねえ、ナナコ。

060 ナナコ/幼少期

うん?

061 初美

きらきら星、歌おっか。星になってしまったあの子のために。
だって今夜は流星群の夜なんだもの。思っていたほどは見えなかったけど、今日ならきっとあの子に、私たちの歌声も届くんじゃないかしら。

062 ナナコ/幼少期

……!!、うん!それすっごくいいよ!歌おう、お母さん。

063 初美

ふふっ。それじゃ、いくわよ。せーのっ、

064 初美・ナナコ

きーらーきーらーひーかーるー
おーそーらーのーほーしーよー
まーばーたーきーしーてーはー
みーんーなーをーみーてーるー
(歌はサンプルと指示出すのでそれに合わせてください)

065 惣一

あれっ、なんだ母さんとナナコ、縁側で歌ってるぞ。ベランダ組と縁側組で、〝どっちが多く流れ星を見つけられるか競争〟じゃなかったのかあ?

066 ウメ/幼少期

ベランダからでもあんまり見えないもんね、流れ星。

067 惣一

よし、じゃあ父さんとウメも歌うかあ!

068 ウメ/幼少期

えぇっ?

069 四人

(ウメはちょっと照れくさそうに)
きーらーきーらーひーかーるー
おーそーらーのーほーしーよー
(歌はサンプルと指示出すのでそれに合わせてください)

《回想終了》

◆いちぢく屋さんにて

070 ウメ/小2

古屋の家に居つくようになってから、ぼくにはひとつふしぎなことがあった。ときたまどこからか、とってもきれいな音がするんだ。ぼくは家の中と外とを自由に行き来することを許されていたけれど、外では決して聞くことのない音だった。
誰かがうたっているに違いないと、ぼくは思った。うたはどうやら母さんの部屋から聞こえてくるらしいことに、ぼくは気づいた。ぼくはどうにかしてそのうた声のひみつを知ろうと試みて、そのたびに母さんにこっぴどく追いかけ回された。だけどある日、開け放したドアのすき間から、とうとう部屋の中を覗き見ることに成功したんだ。

071 ナナコ/大人 N

その日のウメくんはいつもよりほんのちょっとだけ、饒舌でした。

072 ウメ/小2

あの日、父さんはいつものように仕事で、だけど母さんはいつもに輪をかけて塞ぎ込んでいた。遠いところへいってしまった赤ちゃんのことを思って、朝から部屋にこもりきりでずっと泣いていた。ぼくもそっとしておいたほうがいいだろうと思って、さすがにその日はおとなしくしていたよ。そのうちしゃくりあげる声も聞こえなくなって、あんまりにも家じゅう静かなもんだから、つい心配になって、母さんの部屋のそばへ近づいたんだ。すると、ドアが細く開いている。母さんのことは心配だったけど、正直、しめた!と思ったね。ぼくはドアのすき間から、部屋の様子を窺った。母さんの部屋をまともに見たのは、このときがはじめてだった。母さんはテーブルに突っ伏して眠っていた。きっと、泣き疲れてしまったんだね。そのすぐ傍らに大きな鳥籠があって、そこにいたのが、きみだった。

073 ナナコ/小2

え?

◆ナナコ、ウメをふり向く。ウメはじっとナナコを見つめている。沈黙と波の音。

074 ナナコ/小2

……何言ってるの、ウメくん。

075 ウメ/小2

カナリヤだよ、鳥の。ぼくと同じ、古屋の家で飼われていた。

076 ナナコ/小2

わたしが?カナリヤ?ウメくんがねこのミミだったのと、同じようにってこと?

077 ウメ/小2

うん。

078 ナナコ/小2

(すっとんきょうに)えー、うそぉ。

079 ウメ/小2

(強張った声で)本当だよ。

◆沈黙。ナナコ、ウメがどこか緊張しているのを感じて、背筋を正す。

080 ナナコ/小2

……でもわたしは、前世のことなんかちっとも覚えてないよ?

081 ウメ/小2

ナナコも昔は覚えていたんだよ。

082 ナナコ/小2

え?

083 ナナコ 大人/N

聞けばわたしは、幼稚園にあがるあたりまでは確かに、古屋初美の飼っていたオスのカナリヤ、ピピの記憶があったらしいのです。
たとえば急に男の子の言葉づかいで喋り出したり、

084 ナナコ/幼少期

本当、昔っから初美ちゃんの心配性は変わらないんだなあ、もう。

085 ナナコ/大人 N

と、まるでお母さんの古くからの知人のようにつらつらとお説教を垂れはじめたり。それって、ウメくんとおんなじ、とわたしは思います。ウメくんも、

086 ウメ/小2

本当、ナナコって子どもよね。

087 ナナコ/大人 N

とか、妙に大人びた女性的な口調で、言い出すときがあるのです。
さて、お母さんは自分の子どもが、二人揃って性別の一致しない言葉を話したり、ときおり別人のようになったりするのを心配して、何かに取り憑かれているんじゃないかとか、霊媒師さんに見て貰ったほうがいいんじゃないかとか、一時は本気で悩んだそうです。それでどうやら、前世の記憶があるというのは普通のことじゃないらしいと気づいたわたしたちは、ピピとミミだった前世を仄めかすようなことを、特にお母さんの前では絶対に口にしないようにしようと、決めたというのです。だけどわたしはそんなこと、全然覚えていません。
どうしてだろう?

088 ナナコ/小2

あ!お父さんに訊いたら、そのころのこと覚えているかな。

088 ウメ/小2

ああ……ぜんぶ覚えていると思うよ、たぶん。

089 ナナコ/小2

(意味深長に)確かめてみてもいいでしょうか、ウメくん。

090 ウメ/小2

(探偵のような顔つきで)父さんになら、構わんよ。

***

◆ナナコ・ウメ・惣一、三人でお風呂に入っている。

091 惣一

そういえば、そんなこともあったなあ。

092 ナナコ/小2

!!、お父さんもお母さんみたいに、わたしたちが何かに取り憑かれてるんだと思った?

093 惣一

いや、おれはそんな非現実的なことは考えなかったなあ。お前たちはふたごだし、顔立ちもよく似ているから、互いに互いの真似をし合ってるもんだとばかり思ってたよ。
ああ、でも、二人して母さんのことを〝初美ちゃん〟って呼ぶのは、確かにふしぎだった。父さんがむかし、母さんのことをそう呼んでたんだよ。だけどお前たちが生まれてからは、自然と〝母さん〟って呼ぶようになったからなあ。あれは、どうしてだったんだろうなあ。

094 ウメ/小2

父さん。

095 惣一

んー?

096 ウメ/小2

もしもぼくたちが、本当にユーレイに取り憑かれてたとして、そしたら父さんは、どうする?

097 ナナコ/小2

……!

098 惣一

……?、うーん、そうだなあ。お前たちにナニかくっ憑いてたとして、それってたぶん母さんの、古い知り合いか誰かだろう?〝初美ちゃん〟なんて呼ぶくらいなんだから。
だったらいいとこ、見せとかないとなあ。なんたっておれは、初美の人生を任された男なんだ。死んだ初美の知り合いを心配させて、成仏できないなんてことになったら、おおごとだ。認めてもらえるように、まあ頑張るさ。がっはっは!

099 ナナコ ウメ/小2

……。(ぽかんと大きく口を開ける)
……ん。(こっそり目配せして、納得顔で小さく頷き合う)

***

◆いちぢく屋さんにて。

100 ナナコ/小2

それでわたし、どんなだった?

101 ウメ/小2

レモンイエローの巻き毛カナリヤ。オス。名前はピピ。とてもきれいなうた声を持っていた。

102 ナナコ/小2

……そうじゃなくて。わたしが聞きたいのは、このあいだの話の続きよ。わたしがお母さんの飼ってたカナリヤのピピの生まれ変わりで、小さいころは確かにピピだったころのことを覚えていたっていうのはわかったわ。それで、ミミは?お母さんの部屋の、ドアのすき間からはじめてわたしを見て、そこから先は、どうなったわけ。

103 ウメ/小2

(言いづらそうに)あー、うん。その話ね。
あー……うー……。

104 ナナコ/小2

何、どうしたの。はっきり言いなさいよ。

105 ウメ/小2

……あの、悪く思わないでね。

106 ナナコ/小2

う、うん。

107 ウメ/小2

(大きくひとつ息を吸い、感情的な早口で)正直、なんてへんてこな生き物なんだろうって思ったわ。すごく驚いちゃった、だって初美ちゃんが惣一さんと大げんかするほど大事にしてた鳥が、とんだちんちくりんだったんだもの。羽なんかピンピン、あっちへこっちへ跳ね回って、ぜんぜんスマートじゃないの。まるでレモンイエローの、古い羽バタキか何かみたいだったわ。うた声を聞いて、一体どんなきれいなものがうたっているのかしら、と心を躍らせていたわたしは、もう目が点なわけよ。

108 ナナコ/小2

……。(しばし呆然とし、やがてウメを睨む)
……ミーミぃー?

109 ウメ/小2

(ウメに戻って)……しょうがないだろ、本当にそう思ったんだから。

110 ナナコ/小2

(ため息)話を続けてちょうだい。

111 ウメ/小2

うん。(ミミになって)それで、あなたはレモンイエローの古い羽バタキみたいだったけど、わたしにはすぐわかったの。あのきれいなうたをうたっていたのは、あの籠の中のわたぼこりみたいな、ちんちくりんだって。

112 ナナコ/小2

そのちんちくりんっていうの、やめてくれない。

113 ウメ/小2

わたしとあなた、目が合ったわ。黒いきらきらした目をしてた。あなたはちんちくりんだったけれど、瞳だけはとてもきれいだった。
すみわたっていたの。わたしが古屋の家に来てから幾度となく聞いた、あのふしぎなうたのように。あるいは晴れた日の空のように。籠の中のことりのあなたは、四角いガラスの窓越しにしか空を知らないはずなのに、どうしてかしら、ふしぎね。
あなたはとってもきれいなうた声を持っているのに、そのときはひと声も鳴かなかった。くちばしを固く閉ざして、思慮深げに首を傾げてわたしを見つめていた。きっと自分がうたえば、初美ちゃんが目を覚ましてしまうことを知っていたのね。わたし、あんなにきれいな声でうたうあなたを、もっと近くで見たい、くちばしにふれてみたい、できれば話をしてみたいって、思った。だけど同時に、こう直感してもいたの。
〝わたしたちは決して、出会うことができない〟って。

114 ナナコ/小2

……!

115 ウメ/小2

お行儀よく揃えたわたしの前足の先、初美ちゃんの部屋と廊下との境界線は、海よりも深くわたしとあなたを隔てていた。わたしがねこで、あなたが籠の中のことりで、初美ちゃんがことりのあなたを守っている以上、わたしとあなたはどうしようもなく出会うことのできない運命を課せられている。わたし、そう知ったの。そして実際それは、その通りになったわ。

116 ナナコ/小2

(わざと明るく)……でもさあ、そうは言ってもミミは、ねこだったわけでしょ。わたしのこと食べちゃいたいとか、思わなかったわけ。

117 ウメ/小2

うーん……。(ウメに戻って)そりゃあ、はじめはおいしそうだなあって、まったく思わないわけじゃなかったよ。ぼくにもねこの本能ってものは、あったからね。

118 ナナコ/小2

……ミミって、何かじっくり考え事をするときって、ウメくんに戻るよね。
やっぱりねこって、考え事は苦手なものなの?

119 ウメ/小2

さあ……ぼくにもわかんない。でも、もしもぼくがきみを食べたら、二度ときみのうたが聞けなくなってしまう。それは嫌だって、ぼくは思った。だから、血迷ったのは最初のころに見かけた数回だけで、そのあとは食べちゃいたいって思うことは、なかったな。何より、きみと話してみたかったし。だから、母さんが塞ぎ込んでいる日、ぼくはいつも家のすみっこでじっとしていて、母さんが泣き疲れて眠ってしまうのを待っては、そっと足音を忍ばせて部屋を覗きにいったよ。母さんのことが心配だったっていうのも、あるけどね。

120 ナナコ/小2

ふーん、そんなものなのかあ。

121 ウメ/小2

うん、そんなものだよ。……それにしても、

122 ナナコ/小2

うん?

123 ウメ/小2

いや、ふしぎだなあ。どうしてナナコだけが、ピピだったころのことを忘れちゃったのかなあ。(どこか心細そうに)

124 ナナコ/小2

……!

◆沈黙と波の音。

125 ナナコ/小2

……でも、じゃあ、わたしたちは二人揃って、お父さんとお母さんのところに帰ってきたんだね。

126 ウメ/小2

(強く頷く)うん、そういうことになるね。

127 ナナコ/大人 N

帰り道はやっぱり手を繋ぎます。わたしたちの肌は、互いにぴったりと吸いつくようによく馴染みます。それは物心ついたころからわたしが鮮明に感じていたことで、わたしは自分がピピだったことを覚えていた、という事実は忘れてしまったけれど、ずっと以前から、ウメくんの体にふれていると心臓のあたりがぎゅっと締めつけられるような、安心なような、そんな感覚があったことだけは、はっきりと覚えています。

128 ナナコ/小2

わたし、ずっとウメくんを待っていたような気がする。

129 ウメ/小2

!!

130 ナナコ/小2

(気恥ずかしくなって)あ、いや、その……なんていうか!お父さんやお母さんと手を繋いでいるときよりも、しっくりくるような気がするんだよね。

131 ウメ/小2

……。(まじまじとナナコを見つめる)

132 ナナコ/小2

な、なによ。

133 ウメ/小2

……ふふっ。ナナコ。それ、幼稚園にあがるころまでの、ナナコの口ぐせだったんだよ。

134 ナナコ/小2

え?

135 ウメ/小2

〝ぼくはずっと、ウメくんを待っていたんだよ〟って。
ピピの顔をして、よくそう言っていた。(興奮気味に)そうだ、ナナコは覚えていなくても、魂は覚えているのかもしれない。ピピの思いを。……ナナコ!

136 ナナコ/小2

わ!……い、いきなり引っ張らないでよ。

137 ウメ/小2

(被せ気味に)ねえ。……ぼくもずっと、きみをさがしていたよ。

138 ナナコ/小2

……っ!

139 ナナコ/大人 N

そう、そのときわたしには、痛いくらいにわかってしまったのです。ウメくんからずっと聞こえていた、〝さみしい〟の正体。
ウメくんがミミであったことを告白した、あの初夏の日までの数ヶ月、彼がどこかうわのそらでわたしによそよそしかったのも、〝よそよそしい〟が立ち消えたあとも〝さみしい〟だけはずっと、コップいっぱいの水の表面張力のようにウメくんの内側に張りつめていたのも、みんなみんなわたしが、ピピだったこと、わたしがピピだったことを覚えていた事実さえも、忘れてしまったから。ピピは一体、わたしの中から消えて、どこへ行ってしまったんだろう?

***

◆父と母、リビングで話をしている。

140 初美

あの子たちももう、五年生でしょ。あのくらいの年ごろにもなれば、異性の、それも同い年の姉弟で手を繋ぐなんて、普通は恥ずかしがるものよ。お風呂だっていまだにいっしょに入っているし、そろそろ部屋も分けたほうがいいんじゃないかしら。わたし、何かあったらって心配なのよ。だってウメは、いくら子どもだって言ったって、男の子でしょ。

141 惣一

〝普通は〟だなんてこと、おれはどうでもいいと思うよ。あの子たちにも失礼だ。ナナコとウメが自分たちからそうしたいって言い出すまで、好きにさせておけばいいんじゃないか。

142 ナナコ/大人 N

三角の海がぴかりぴかりと笑っていた、あの初夏の日から三年の月日が流れ、わたしたちは小学五年生になっていました。
ちかごろお母さんは、わたしとウメくんが小学五年生になっても仲がよすぎることを、いささか心配しているようです。もちろん面と向かって言われたわけではなく、夜、リビングでお父さんにそう話しているのが、わたしたちの部屋にまで聞こえてきてしまったのです。
お父さんがこちらについてくれたので、わたしたちはひとまずほっと胸を撫でおろしたのだけれど、その後もお母さんの、

143 初美

ナナコちゃんとウメくんも、そろそろ自分一人だけの部屋が、欲しいんじゃないの。

144 ナナコ/大人 N

とか、

145 初美

そろそろ一人でお風呂に入るようにしたら。

146 ナナコ/大人 N

とか、わたしたちを引き離そうとする地道な努力は続いていました。そのたびにわたしは、

147 ナナコ/小5

ううん、ウメくんといっしょがいい。

148 ナナコ/大人 N

と言い、ウメくんも、

149 ウメ/小5

ぼくも、ナナコといっしょじゃなくちゃ嫌だ。

150 ナナコ/大人 N

と答えます。するとお母さんは複雑そうな顔をして押し黙り、皿洗いや洗濯物、アイロンがけや晩ごはんの支度に戻ってしまいます。
お母さんが何を恐れているのかなんて、わかりきっています。わたしたちが、思春期というものに差しかかりつつあることです。わたしたちが男女の姉弟であるがゆえに、お母さんがいらぬ心配をしているのは、わたしもウメくんも、もちろんお母さんからじかに話を聞かされているお父さんもちゃんと気がついていて、ある日お父さんはこっそりわたしとウメくんを呼びつけて、珍しくまじめな顔をして言いました。

151 惣一

最近、母さんがやけにお前たちを引き離そうと躍起になっていることは、ウメとナナコも気づいているだろう。特に、ウメ。ウメは男の子だから心配なんだって、前に母さんが父さんに話していたこと、お前たちにも、聞こえていたよな?

152 ナナコ ウメ/小5

(互いに目配せし合って)……うん。

153 惣一

だよなあ。あいつ、神経が昂っていると、いやに声がでかくなるからなあ。 (ひとつ咳払いをして)お前たちはまだ子どもだけど、もういろんなことがわかる年ごろになったと、父さんは思う。だから、話すよ。母さんは昔、悪い男の人に、とてもとても酷い目に遭わされたんだ。母さんが〝ソウキョクセイショウガイ〟になってしまったのは、お前たちのもう一人の兄弟をちゃんとこの世に送り出してあげられなかったっていうのもあるけど、元をたどればぜんぶその、悪い男の人のせいなんだ。母さんは今でもそのときのことを忘れられていなくて、父さんに対しても、ウメに対しても、ときどき酷く注意深くなってしまう。でも、心配はいらないよ。お前たちは間違いなく、父さんと母さんに望まれて、祝福されて生まれてきた子どもだ。母さんは自分の子どもをちゃんと愛せる人だって、そう思ったから、父さんは母さんと結婚したんだ。父さんも母さんも、お前たちのことをとても愛しているし、愛しているから心配もする。だけど母さんがどうしても、不安で不安で仕方がなくて、その不安をお前たちにぶつけてしまうようなときには、父さんのところにいつでも逃げてくればいい。会社に来たっていいんだぞ。今度、地図を書いてやろう。電車で一駅乗ればすぐだ。そうしたら父さん、ウメのこともナナコのことも母さんのことも、みんなまとめて、抱っこしてやるからな。

154 ウメ/小5

ええ、わかってるわ。

155 惣一

へ?

156 ナナコ/小5

……!……!(ひやひやしている)

157 ウメ/小5

(女言葉に気づいてあたふたしながら)あー……その、ほら、ぼくは母さんに性格が似てるってよく言われるし、だから母さんが不安になるのも仕方がないことだって、ちゃんとわかってるよ。だから、大丈夫。

158 惣一

そうか。ウメは強いんだな。なら、大丈夫だな。

159 ナナコ ウメ/小5

(安堵の息をつく)

***

160 ナナコ/大人 N

わたしたちがピピとミミについての話をするとき、ひとつだけ、決して口にしなかったことがあります。ピピとミミの、死についてのことです。ピピとミミの生まれ変わりであるわたしとウメくんが、今、こうしてここにいるということは、わたしたちの存在は絶対的に、ピピとミミの死によって裏づけられている、ということにほかなりませんでした。わたしが抱く死への恐怖は、年を重ねるに連れてどんどん大きくふくれあがり、もはやわたしに向かってぽっかりと口をあける、巨大なブラックホールと化していました。
まっくらで、なんにもない。わたしという存在は、完全に、なくなる。わたしの中からピピがいなくなってしまったのと同じように。この世に生まれてこなかった、わたしとウメくんのもう一人の兄弟のように。彼らは一体、どこに行ってしまったんだろう?いつも学校で楽しそうに笑っているさっちゃんやしいちゃんも、こんなふうに〝死〟というものについて、考えることがあるんだろうか?
わたしにとってあまりにも未知な〝死〟というものが、怖くて怖くてたまらなくて、わたしはいつもベッドの内で声を殺して泣きました。すると必ずと言っていいほど、二段ベッドの上から、ウメくんの腕がためらいがちにおりてきて、わたしに向かって差し伸べられるのでした。
あのとき、わたしが何を思って泣いていたか、ウメくんが知っていたのかどうか、定かではありません。すべてを見すかされていたような気もするし、わけもわからず途方に暮れて、彼にできる精一杯のことを考えた末に導き出した答えが、二段ベッドの上からおりてきた、あの腕だったのかもしれません。
そう、わたしはこのころから次第に、ウメくんが何を思い、考えているのか、感じ取れなくなっていました。たとえば二人のあいだに訪れる心地よい沈黙だとか、わたしの耳に以前は自然と聞こえてきた、声にならない〝さみしい〟という叫びだとか、暗黙のうちに共有できていたわたしたちだけの言語、あるいはルールといったものを解することが、できなくなっていったのです。
心のどこかで、たぶんわたしたちは焦りを感じていました。そうでなければあんな事件が起こることもなく、わたしたちの小学五年生の夏は、何事もなく過ぎていくはずだったのです。
夏休みに入る少し前のことでした。あれは、そう、忘れるはずもない、火曜日のできごと。もうすぐお母さんがおやつを持ってきてくれる時間で、わたしとウメくんは思い思いに、部屋で過ごしていました。

***

◆ナナコとウメの部屋。ウメは机に向かって宿題をし、ナナコはベッドにだらしなく寝そべっている。扇風機が回っている。

161 ウメ/小5

ナナコ、宿題。

162 ナナコ/小5

うーん……あとで。

163 ウメ/小5

言っとくけど、ぼくのはうつさしてあげないからね。

164 ナナコ/小5

えー。

165 ウメ/小5

当然。

166 ナナコ/小5

(寝返りを打つ)だってさあ、暑いんだもん。扇風機から離れたくなーいー。
(扇風機の頭を捕まえて)ワレワレハウチュウジンダ──!(←これほんとに扇風機でやってみてほしいんだけど、ゆのし扇風機持ってますか?)

167 ウメ/小5

(少し笑って)まったくどっちが姉で、どっちがねこなんだか。

168 ナナコ/小5

えへへ。

◆ナナコ、ふと真顔になってウメの後ろ姿を見つめる。沈黙。

169 ナナコ/小5

……ウメくんってさあ、わたしの中からピピがいなくなってることに、いつごろ気がついたの。

170 ウメ/小5

(椅子の背もたれに腕をやって、ナナコを振り向く)……今更。
何、急に。なんでいきなりそんなこと言うの。

171 ナナコ/小5

いや、ミミだったことを話してくれたちょっと前、ウメくん、妙にわたしによそよそしい時期があったでしょ。

172 ウメ/小5

え?そんなこと、あったっけ?

173 ナナコ/小5

あったよおー。むー。

174 ウメ/小5

(ナナコが機嫌を損ねてしまったので、慌てて)えーっと、確か春だよ。母さんのことがあってから、ぼくらずっと、ピピとミミだったころの話をしていなかったんだ。だけどほら、小学校にあがって、二人でいちぢく屋さんに行くようになっただろ?それでふと、ミミだったころにもここに連れてきてもらったことがあるのが、蘇ってきたんだ。この場所から海を眺めていた父さんと母さん、すごくしあわせそうで、それでぼくも、行ったこともないくせに海が好きだったんだって、思い出した。ぼくもそれまで、自分がミミだったってことをほとんど忘れかけててさ、気がついて、驚いたよ。だけど、そのことをナナコに言ったらとんちんかんな答えが返ってきて、どうやらナナコの中からは、ピピがすっかりいなくなってるらしいってことに気がついた。それでいろいろ、考え事をしていたからかな。別によそよそしくしていたつもりはなかったんだけど、そんなふうに見えてたんなら、謝るよ。ごめん。

175 ナナコ/小5

……ぷっ。

176 ウメ/小5

177 ナナコ/小5

(悪戯っぽく)うそだよ。

178 ウメ/小5

え?

179 ナナコ/小5

本当は知ってたよ、別によそよそしくしようと思ってそうしてたわけじゃないって。あのころさあ、さみしかったんでしょ?わたしがピピだったころのことを忘れちゃったから、ひとりぼっちになっちゃったみたいで。(挑発的に)騙されたね、ウメくん。

180 ウメ/小5

(顔を真っ赤にして立ち上がり)……ナナコ!

◆ウメ、ナナコに向かって突進。

181 ナナコ/小5

うわっ、やっべ!

182 ウメ/小5

このやろっ。(ナナコをくすぐる)

183 ナナコ/小5

ぎゃー!ちょ、そこはやめ、くすぐんなって!あははははははは!
こンのー……お返しっ!こちょこちょこちょこちょー!

184 ウメ/小5

わっ、やめろよ!ていうかいまどきこちょこちょこちょこちょーってっ……あははははははは!やったなー……お返しがえしっ!

◆SE:ドサッ。ウメ、うっかりナナコをベッドに押し倒してしまう。

185 ナナコ/小5

へ?

186 ウメ/小5

あ。

187 ナナコ/小5

……あっははは。ウメくーん、この体勢はさすがにまずいっしょ。ほら、こんな子どもっぽいこともう終わりにしよ!そこどいて?

188 ウメ/小5

……。(じっとナナコを見つめている。動かない)

189 ナナコ/小5

……えーっと。ウメくーん?
(ウメを押しのけようとしながら)ちょっと、おい、もうかんべん……!

190 ウメ/小5

(ナナコの唇を素早く舐める)

191 ナナコ/小5

!?

192 ナナコ/大人 N

驚いて、声も出ませんでした。わたしの上に覆い被さるウメくんが出し抜けに、わたしのくちびるをぺろっと舐めたからです。わたしはウメくんを、まじまじと見つめました。わたしとそっくり同じ、ウメくんの顔。

193 ナナコ/小5 M

(……あ、ミミだ)

194 ナナコ/大人 N

わたしのくちびるを舐めたのは、ウメくんじゃなくてねこのミミでした。ウメくんはいつのまにか、ミミの顔になっていました。なあんだ、とわたしはほっとしたような、気の抜けたような気持ちになります。ちょっと、キスされたのかと思っちゃった。
ねこのミミに組みしかれながら、わたしはいつか、ウメくんの前世を知るよりも前に、彼が話していたことを、思い出していました。

195 ウメ/小2

〝ねこはね、そのことりのうたがとても好きだったんだ。たった一度でいい、そのくちばしにふれてみたいと、願う程度にはね──〟

196 ウメ/小5

(ウメなのかミミなのか曖昧に)ずっとナナコをさがしていたんだよ。

197 ナナコ/小5

……うん。

◆ナナコ、両手でぺちんと、ウメの頬を挟む。

198 ナナコ/小5

(そっと囁く)忘れてしまって、ごめんなさい。

199 ウメ/小5

(ナナコの肩に額を押し当てるようにして、顔をうずめて)ううん、もういいんだ。ねえ、ナナコ。ぼくはね、わかったんだよ。たぶん、ぼくがまだミミでいるのは──、

◆SE:ガシャーン!

200 ナナコ ウメ/小5

!!

◆クッキーの皿とティーカップが、床に砕け散っている。

201 初美

……何をしてるの、あなたたち。

***

◆リビングにて。ナナコ・ウメ・初美の三人、まっさらなテーブルを神妙な面持ちで囲んでいる。沈黙。時計の音だけが、カチカチと響いている。

202 惣一

ただいまあー。

203 他三人

!!!

204 惣一

なんだい、今日は誰の出迎えもなしかい?
(リビングのドアを開け、異常な光景にぎょっとする)……!?
(うろたえて、全員の顔をかわるがわる見つめる)どうしたんだい、みんなして、お通夜のような顔をして。

205 初美

ウメがナナコにキスをしたわ。

206 惣一

え、

◆ウメ、黙ったまま、否定も肯定もしない。沈黙と時計の音。

207 初美

だから言ったのよ、小学五年生にもなって、ウメとナナコは仲がよすぎるって。おかしいと思ってたわ。

208 ウメ/小5

(落ち着いた様子で)母さん、

209 他三人

!!

210 ウメ/小5

ぼくとナナコはふたごだよ。家族なんだ。どうしてキスをしちゃいけないの。

211 初美

家族だからよ!(机をバン!と叩く)

212 惣一

まあ、少し落ち着きなさい、お前。

◆父、かばんを置き、スーツの上着だけを脱いで椅子の背もたれにかけると、ウメの向かいの席に腰を下ろす。

213 惣一

ウメ。本当なんだね。

214 初美

本当よ!

215 惣一

初美、おれはウメに訊いているんだよ。

216 ウメ/小5

本当だよ。

217 ナナコ/小5

……!?

218 惣一

どうしてそんなことをしたのか、父さんに教えてくれるかな。

219 初美

そんなの、理由なんてひとつしかないわ!

220 惣一

初美、

221 ウメ/小5

それは、言えない。

222 惣一

どうして言えないんだい。

223 初美

うしろめたいことがあるのね。そうなんでしょう?

224 ウメ/小5

(はじめて少し躊躇して)……言っても、信じてもらえないと思うから。

225 惣一

ちゃんと話してくれないと、父さんと母さんはお前たちを無理やりにでも引き離さざるを得なくなるよ。

226 ウメ/小5

(迷いなく)構わないよ。

227 ナナコ/小5

……!(息を飲む)
……わたしは、嫌だ。(声が震える)

228 ウメ/小5

(困ったような顔をして)ナナコ。

229 ナナコ/小5

わたし、ウメくんといっしょがいい。

230 ウメ/小5

(諭すように)ナナコ、だめなんだ。ぼくたちは、もう以前のようにあり続けることはできない。ナナコだって、本当は気づいているんだろう?ぼくたちが、ぼくたちだけに交わすことのできた言語を、もはや失いつつあること。

231 ナナコ/小5

……っ!(いやいやをするように首を横に振る)

232 ウメ/小5

ぼくはね、正直今回のことは、ぼくたちにとってもちょうどいい機会だと思っているんだ。終わりにするんだよ、あのふたりのこと。ふたりがぼくとナナコに刻みつけていった思いから、ようやく解放されるんだ。
喜ぶべきことじゃないか。ぼくたちの体も心も、やっとぼくたちだけのものになるんだから。ぼくたちはこれまで、あのふたりの事情に、巻き込まれすぎていたんだよ。

233 ナナコ/小5

でも……!

234 初美

(勝ち誇った様子で、高らかに)ほらね、やっぱりわたしの言った通りでしょう。男っていうのはみんな、はなっから信用ならない生き物なのよ。女と見れば見境なく、盛りのついたねこみたいに。だけど、早くに気がついてよかったわ。これでウメとナナコが、おかしな道に進んでしまうこともなくなるんですもの。これからは、ちゃんとした、普通の姉弟として、暮らしていける──、

235 惣一

(被せて、激昂)いい加減にしないか!

236 他三人

っ!?

237 惣一

お前、なんてことを言うんだ。ウメハルに対して、失礼だぞ。

238 初美

だって、だって、あなた……!

239 惣一

だっても何もあるか!お前はウメハルのことを、なんにもわかろうとしていないじゃないか。自分の思い込みばかりで、二人の話をなんにも聞こうとしていないじゃないか。少なくとも今のは、十歳かそこらの子どもに対して言うようなことじゃ、断じて、ないぞ。

240 初美

仕方がないじゃない、だって!だってわたしは、病気なのよ……?

◆沈黙。

241 惣一

(静かに)病気が人を傷つけていい理由になると、お前は思ってるのか。

242 初美

(うろたえて)それは……、

243 惣一

そうか。そうなんだな。
……初美、お前には幻滅したよ。もう、おしまいにしよう、何もかも。おれとお前がこれまで築きあげてきたもの、ぜんぶだ。

244 初美

なんですって?

245 惣一

離婚だと言っているのが、わからないのか。

246 ナナコ/小5

……!

247 初美

……ご冗談でしょう?

248 惣一

子どもたちのためだ。ウメハルとナナコは、おれが連れていく。

249 初美

ふざけないでちょうだい……ウメとナナコはわたしの子どもよ!

250 惣一

子どもを守ってやるのが親の役目じゃないのか!

251 初美

渡さないわ、あなたなんかに!

252 惣一

よし、ならば裁判だ。お前のようなヒステリー持ちの女に、親権が勝ち取れるとでも思ってるのか──!

253 ウメ/小5

(被せて)もうやめて!

253 他三人

!!

255 ウメ/小5

(静かに涙をこぼして)……やめて、お願いよ。
けんかなんて、もうたくさん。

256 初美

……ウメ?

257 ウメ/小5

あの夜だってそう。わたしは惣一さんのコートにすっぽりくるまれてこの家に連れてこられて、そうしたら初美ちゃん、わたしがことりを食べちゃうかもしれないって、今日みたいに癇癪を起こして。そのときは惣一さん、のらりくらりとかわしていたし、家にたどり着くころにはわたしはすっかり彼の体の安心なあたたかさが好きになっていたけれど、わたしが家に来たせいで彼とお嫁さんがけんかになるくらいなら、外で雨に打たれていたほうがよっぽどましだって、わたし思ったわ。わたしのせいで、誰も争ってほしくなかった。
前の人に捨てられたのだって、それは悲しかったけれど、わたしが邪魔だったのなら、仕方のないことだって思っていたのよ。

258 惣一

……!(目の前にいるのが誰であるかに、気がつく)

259 ウメ/小5

(うわごとのように)もうたくさん。たくさんよ。

◆ウメ、ふらふらとリビングを出ていく。三人、呆然とそれを見送る。やがて玄関のほうで、ガチャン、とドアの閉まる音がする。

260 初美

……!(にわかにくずおれるようにして、ぺったりとその場に座り込む)

261 惣一

おい、お前!(初美に駆け寄る)

262 初美

(自分の体を抱き締め、がたがたと震え出す)……あの子だわ。
あの子が帰ってきたんだ。やっぱりわたしを恨んでいたんだ。思い返してみれば、まだ言葉を覚えて間もないころから、ウメはああいう言葉づかいをすることがしょっちゅうあったわ。ウメとナナコを身ごもったときから、祝福なんかされるはずもなかったのね、わたしたち。一番はじめの子は産まない選択をして、その次の子はちゃんとこの世に送り出してあげられなくて、捨てられて雨に濡れそぼっていたあの子にだって、わたしは酷いことばかりして。わたしがウメをそういうものに、産んでしまったのね──、

263 ナナコ/小5

違う、ミミは、お母さんを恨んでなんかいない!

264 惣一・初美

!?

265 惣一

どうしてお前がミミのことを知っているんだい、ナナコ。

266 ナナコ/小5

わたしはピピよ、お母さん。

267 初美

え……?

268 ナナコ/小5

あのね、ミミは、わたしのうたが好きだったんだって。それで、わたしはピピだったころのことをすっかり忘れちゃったんだけど、ウメくんは覚えているの。だけどミミはねこだったから、ことりのわたしには近づくことも許されなくて、だからわたしたちは生涯出会うことは叶わなかった。でも、それだけ。わたしとウメくんはちょっと出会うのが遅すぎただけだし、ミミはうたを紡ぐわたしのくちばしにふれてみたかっただけ。それにね、お母さん。ミミはお母さんのことを恨んでもいないよ。星になってしまった、わたしたちのもう一人の兄弟のことを思ってお母さんが泣いているとき、ミミはいつも家のすみっこで、おとなしくしていたでしょう?それはお母さんのこと、心配していたからだよ。大丈夫、わたし知ってるわ。ミミは誰かを恨むような子じゃないの。だってミミは、お父さんのねこだったんだもの……っ!

269 惣一

……そうか。

270 ナナコ/小5

っ、お母さん。

271 初美

……。(初美、ナナコを見つめている。やがて立ち上がって静かに歩み寄り、ナナコを抱き締める)

272 ナナコ/小5

……お母さん?

273 初美

(小さく)……ピピ。

274 ナナコ/大人 N

生きていたころきっとピピは、小枝のように今にもぽっきりと、折れてしまいそうな脚をしていたに違いありません。
お母さんのくちびるから、わたしが〝ピピ〟という名前を聞いたのは、生涯を通じてその一度きりでした。だけど、あのとき感じた途方もない感情は、忘れようもありません。それはわたしの体の、というよりはきっと魂の、奥深くから洪水のようにわき起こり、シャンパンゴールドのエトワールを散らして、歓喜の渦に跳ね回りました。
ああ、わたしはかつて確かに、ピピだったのだ。
そして、わたしがもうピピではないという、歴然とした事実も。
今、お母さんは、古屋七子の母親ではなくて、巻き毛カナリヤのピピの飼い主の〝初美ちゃん〟としてそこにいました。幼いころはわたしも口にしていたというその呼び名を、よほど口にしてしまいたかったけれど、わたしは耐えて、じっと抱き締められていました。だってそれはピピの言葉であって、古屋七子が今、ピピのふりをしてそれを言うのは、とてもずるいことだと思ったから。

275 惣一

初美、とにかく、おれたちの今後についての話はあとだ。今はウメをさがそう。まだ、近くにいるかもしれない。

276 初美

ええ、そうね。

277 ナナコ/小5

わたしも行く!

278 惣一

だめだ。

279 ナナコ/小5

でも、でも、ウメくんはわたしの弟だ!

280 初美

ナナコは家にいなさい。何かあったらすぐに連絡するから、ね。(ナナコの頬にキス)

281 ナナコ/小5

……わかった。

282 惣一

行くぞ、初美。

283 初美

ええ、あなた。

◆重たい音とともに、玄関ドアが閉まる。

***

284 ナナコ/大人 N

翌朝になっても、ウメくんは帰ってきませんでした。わざわざ言葉にせずとも、お父さんとお母さんの疲れきった顔を見れば、二人がウメくんをさがして一晩じゅう奔走していたことは、一目瞭然でした。

285 初美

ナナコは学校に行きなさい。

286 ナナコ/小5

……はい。

287 ナナコ/大人 N

水曜日。本来であれば、ウメくんといっしょにいちぢく屋さんに行くはずの日です。お母さんは決まって、朝のニュースを見てその日が水曜日であることに気づき、

288 初美

ああ、今日はいちぢく屋さんの日ね。

289 ナナコ/大人 N

と、わたしとウメくんにおこづかいを渡してくれます。でも、その日はそれもありませんでした。今朝の食卓にテレビはついていなかったし、何よりウメくんがいないのだから、それは当たり前のことでした。ウメくんがいなければ、〝水曜日にいちぢく屋さんに行くこと〟なんて何の意味もないのだと、こんな状況に立たされて、わたしはようやく気がつきました。
ねこは死ぬとき、飼い主の前から姿を消す、という話を、聞いたことがあります。不吉な予感で胸がいっぱいでした。だからわたしは早足に、何も知らない人が見たら怒っているんじゃないかって思われるくらいの大股で、学校への道のりを急ぎました。

《教室にて》

290 さっちゃん

おはよう、ナナコちゃん。あれ、今日はウメハル、いっしょじゃないの?珍しいね。

291 しいちゃん

あっ、おはよう。どうしたの、酷い顔。

292 ナナコ/小5

さっちゃん、しいちゃん。(たまらなくなって、大粒の涙をこぼしぽろぽろと泣き出す)ウメくん、いなくなっちゃった。お父さんとお母さん、離婚するかもしれない。う、ぅうっ……!うわぁぁぁぁぁん……!
(ヒデヨシが近づいてくるまで、泣き続ける)

293 しいちゃん

えーっ!ちょっと、一体何があったのよ。

294 さっちゃん

ナナコちゃん、だいじょうぶ……?

295 しいちゃん

ほら、話してみて?

296 さっちゃん

ナナコちゃん……?ねえ、しっかり。

297 しいちゃん

ナナコってば……!

◆ヒデヨシ、三人のところに近づいてくる。

298 ヒデヨシ/小5

泣くな。

299 他三人

!!

300 ヒデヨシ/小5

泣くな、古屋。

301 ナナコ/小5

(しゃくりあげながら)ヒデヨシくん……。

302 ナナコ/大人 N

そこにいたのがヒデヨシくんであったことを、わたしはとても意外に思いました。一年生と、二年生のときだけクラスがいっしょで、五年生になってまたおんなじクラスになったヒデヨシくん。二年生にあがるころには、既にお父さんとお母さんが離婚していたヒデヨシくん。
それが具体的にいつごろ起こったことであるのか、定かではありません。それまでわたしはほとんど、ヒデヨシくんと言葉を交わしたことはなかったのです。それなのに、ヒデヨシくんの両親が離婚してしまった、という事実をわたしが知っているのは、二年生の最初のころのホームルームで書かされた〝自己紹介カード〟というもののせいです。他にどんな項目があったのか、鳥頭のわたしはとうに忘れてしまったけれど、〝家族について〟──そんな名前の項目があったことだけは、はっきりと覚えています。ほかの多くの子たちがお父さんとお母さんの写真を貼ったり、似顔絵を描いたりして、彩りも鮮やかに楽しそうな家族の様子を描写していたのに対して、ヒデヨシくんだけはただひとこと、

303 ヒデヨシ/小5

〝りこんした〟

304 ナナコ/大人 N

と、ミミズののたくったような乱暴な鉛筆の文字で殴り書きをしていました。
教室の後ろの壁に、クラスの全員分、貼り出された自己紹介カードを眺めていたわたしは、その文字に釘づけになったものでした。
〝りこんした〟
それはつまり、結婚した二人が、離ればなれになってしまうということです。小学二年生のわたしでも、そのくらいのことは知っていました。だけどまさか、こんな身近で〝りこん〟というものが起こっていたなんて、当時のわたしには思いもよらないことだったのです。お父さんとお母さん、どちらか一方でもいない生活なんて、当時のわたしには想像するのも難しいことでした。
恵まれていたのです。
一度は結婚するくらいに好き合っていた二人が、一体どうして離婚という選択をしなくちゃならないくらい、心が離ればなれになってしまうというのでしょう。

305 ウメ/小2

ナナコ、ちゃんと先生の話聞いてる?

306 ナナコ/大人 N

そのころから口うるさいお母さんみたいだったウメくんは、おかげでその日一日じゅう、後ろの席から何度もわたしを突っつくはめになっていました。

307 ヒデヨシ/小5

(居心地悪そうに)確かに、離婚はいやだけど……生きていれば、意外となんとかなることも、ある。それに、親が離婚しても、古屋とウメハルがふたごの姉弟なのは、変わらないだろ。それとも、なんだ。お前たちは、親が離婚したら、ふたごの姉弟きょうだいじゃなくなるのか。

308 ナナコ/小5

(いつの間にか、しゃくりあげることも忘れて)……ううん、違う。そんなことない。

309 ヒデヨシ/小5

そうだろ。今は、それでいい。……へへっ。(屈託なく笑う)

310 ナナコ/小5

……!(ヒデヨシの笑顔が思いがけないもので、ぽかんと口を開ける)

311 ヒデヨシ/小5

(慌ててむすくれた表情を取り繕って)それだけ、言っておきたかったんだ。じゃあな。
(きびすを返すが、すぐに立ち止まって少し考え、ぶっきらぼうにつけ加える)……ウメハル、早く見つかるといいな。

◆ヒデヨシ、自分の席に戻る。

312 ナナコ/小5

……、

313 ナナコ/大人 N

生きていれば、意外となんとかなることも、ある。その言葉は、のちのわたしの人生に多大な影響を及ぼすことになる。ヒデヨシくんのその言葉がなかったら、わたしはもしかすると、とうに生きることを諦めてしまっていたかもしれない。たとえば死んじゃいたいくらい苦しいことがあっても、生きてさえいれば。生きてさえいれば。そう言い聞かせて、わたしは今日まで生きてきました。そうして実際生きてみると、意外とどうにかなってしまうもので、苦難をひとつ、またひとつと乗り越えるたび、強くたくましくなっていくような気さえします。女性としては、ちょっとくらいか弱いところがあったほうがかわいげがあるような気もするんだけど、年を経るたびどんどん神経が図太くなっていってしまうのは困りものです。やっぱりわたしは繊細で傷つきやすいお母さんじゃなくて、おおらかでおおざっぱなお父さんに似ているみたい。
実はヒデヨシくんにも、両親の離婚で離ればなれになった小さな妹がいたと知るのは、もっとずっとあとのこと、わたしたちが大人になってからの話です。

314 ヒデヨシ/大人

おれ、あのとき古屋にすっげえ偉そうなこと言ったけどさ。本当は自分が誰かに、そう言って欲しかっただけなのかもしれない。へへっ。

315 ナナコ/大人 N

同窓会の席で、すっかり肩幅も広く背も伸びて、ひげの剃り跡なんか作っちゃっている大人の男の人のヒデヨシくんは、そう言って照れくさそうに笑いました。

316 ヒデヨシ/大人

妹はさ、おれのこと覚えていないんだ。親が離婚したとき、あいつは本当に、すごく小さかったから。古屋んちの離婚騒動があってからしばらく経ったころ、冬だったかな。おれ、ひさしぶりに妹に会いにいったんだ。あいつ、おれのことを怖がったよ。おれは赤ん坊のあいつがかわいくて仕方なかったから、結構、ショックでさ。それ以来、妹にもおふくろにも会ってないんだ。古屋にあんな偉そうなことを言ったくせに、情けないよな。

317 ナナコ/大人

でも、わたしはヒデヨシくんの言葉に、ずっと助けられて生きてきたよ。

318 ヒデヨシ/大人

……へへっ。(ほろ苦い顔をして、笑う)

***

319 ナナコ/大人 N

結論から言ってしまうと、ウメくんは無事に見つかったし、お父さんとお母さんは離婚をしませんでした。
お父さんとお母さんのことに関しては、二人のあいだに果たして何があったのか、わたしの知るところではありません。だけど二人はいつのまにか、すっかり仲直りをしていて、それどころか以前に輪をかけてお熱い夫婦になっちゃっているようでもあり、何はともあれ離婚の心配は当面なさそうだったので、わたしはひとまずほっと胸を撫でおろしたのでした。

320 ヒデヨシ/大人 N

ウメハルが見つかったのは、学校の近くの川沿いを、隣町までずっと行った先の土手の下で、警察に保護されたときには川岸に腰かけて、コンビニのおにぎりを一人でもそもそ食べているところだったらしい。ウメハルの服装や身体的特徴を元に捜索をしていた警官が声をかけたところ、驚くほど素直に自分が古屋梅春であることを認め、おとなしく署まで同行したという。

321 ナナコ/大人 N

生きていれば、意外となんとかなることも、ある。そしてウメくんは、無事に生きて見つかった。だからきっと、大丈夫。お父さんとお母さんが離婚してしまっても、ピピとミミのことが終わってしまっても、わたしとウメくんがふたごの姉弟であるという事実は、終わらない。わたしたちがいつか星になるその日まで、ずっと、ずっと、続いていく。

◆初美とナナコ、初美のミニバンから降り、警察署に駆け込む。

322 初美

ウメ!

323 ナナコ/小5

ウメくん!

324 警官1・2

!?

325 警官1

……ああ、古屋梅春くんのお母さま──と、ご姉弟の方ですね。お父さま、既にいらしていますよ。それにしても、お父さまの会社のすぐそばで見つかるなんて、やはり誰かにすがりたいところもあったんですかねえ。

326 警官2

さ、どうぞこちらへ。

◆ナナコと母、ウメと父がいる部屋に通される。

327 ウメ/小5

!!……お母さん。

328 初美

……っ!(声もなくウメを抱き締める)

329 ウメ/小5

うわ、ちょ、お母さん、くるし……!(もごもご)

330 初美

……、(泣いている)

331 ウメ/小5

!!、……。

332 初美

……。(そっとウメを解放する)

333 ウメ/小5

……心配かけてごめんなさい、お母さん。

334 初美

ううん、お母さんのほうこそ、ごめんね……!(少しの躊躇ののち、ウメの耳元でおずおずと)……ミミ、いるんでしょう?

335 ウメ/小5

っ!、……ん。(小さく頷く。目を閉じてひと呼吸し、再び目を見開くと、ミミの顔になっている。ミミ、照れくさそうに話し出す)
こんにちは、おひさしぶりね、初美ちゃん、惣一さん。もっともわたしはずっとここにいたんだけれど、こうしてちゃんと話をするのは本当にひさしぶり。このあいだはつい感情的になってしまってごめんなさい。ウメハルにも悪いことをしちゃったわ。もしかするともうナナコに聞いているかもしれないけれど、わたしはわたしの生まれ変わりであるウメハルに、何の因果かこびりついている記憶の残滓のようなもの。一応言っておくけれど、取り憑いているってわけじゃないから、安心してね。

336 初美

……!(たまらないように口元をおさえて、首を横に振っている)

337 惣一

こりゃあ、たまげたなあ。

338 警官1・2

……?(困惑)

339 初美

(しっかりとウメに目線の高さを合わせて)あなたにも、謝らなくちゃいけないって、思っていたの。

339 ウメ/小5

その必要はないわ、初美ちゃん。(ナナコに目をやって、気遣わしげに)ナナコにも関係のある話だから、聞いていてね。

340 ナナコ/小5

ぁ、……うん。

341 ウメ/小5

(穏やかな口調で)ピピはわたしより先に死んでしまったの。寿命だったわ。

342 ナナコ/小5

!!(息を飲む)

343 ウメ/小5

ピピが死んだとき、惣一さんは仕事で、家にはわたしと初美ちゃんしかいなかった。初美ちゃんはピピの鳥籠の前で、小さな亡骸を胸元に抱き締めて呆然と立ち尽くしていたわ。何が起こったのか、わたしにはすぐにわかった。近ごろピピに元気がないのは、遠くから聞こえてくるうたの調子で、わたしもとうに気づいていたから。それではじめて、初美ちゃんの部屋に入ったの。もちろんすごく勇気が要ったけど、今、初美ちゃんを放っておいたらいけないって、わたし思った。わたしはなるべくそっと初美ちゃんに近づいて、前足もお行儀よく揃えて、にゃあんって、鳴いたわ。そこでようやく、初美ちゃんはわたしに気がついた。初美ちゃんはいつものように、スリッパを持ってわたしを追いかけ回したりはしなかった。何を考えていたのかしら、しゃがみ込んで、わたしの前にピピの亡骸を差し出したの。そのときはじめて、わたしピピを間近で見た。思っていたよりずっと小さくて、年のせいか痩せこけていて、そしてやっぱりレモンイエローの古い羽バタキみたいにちんちくりんだった。そのときわたしの頭に、ぽつんと雨が降ってきた。見あげたら、初美ちゃんが泣いていた。わたし、雨は大きらいだったけれど、じっと我慢して、初美ちゃんのそばに寄り添っていた。わたしはねこだから泣かなかったけれど、もうあのうた声が聞けないんだと思うと、悲しくてたまらなかった。ずっと、ピピに会いたかった。あんなにきれいなうたを紡ぐピピのくちばしに触れてみたかった。だけど、それは叶わなかった。
それからほどなくして、車にはねられてわたしは死んだの。でも、あれは不幸な事故だったのよ。ピピのこととは関係ないわ。だから安心して、ね、初美ちゃん。

344 初美

(またひとつ、涙が頬をすべり落ちていく)ずっと、わたしのせいだと思っていた。わたしがずっと目の敵にしてきたから、あなたは家を出ていってしまって、それで車にはねられてしまったんだって。自分が悲しいときだけそばにいてほしいなんて、むしがよすぎたんだって。ごめん、ごめんね、ミミ。わたし、ミミに酷いこと、いっぱいしたよね。

345 ウメ/小5

(初美の涙を指先でそっとぬぐいながら)もう、初美ちゃんったら、おばかさんね。ねこはことりを狩るものと、本能でそう決まっているのよ。あなたがわたしを警戒するのなんて、当然のことじゃない。それに、初美ちゃんがわたしを家に置くことを渋ったのだって最初の数日間だけで、あとは部屋に近づかない限り文句も言わず家にいさせてくれたし、ごはんだってちゃんとくれた。わたしが責めるとすれば、それはピピがいるのにわたしを拾ってきた、惣一さんの無責任さと無神経さよ。(最後の方は悪戯っぽく、惣一の方を見て)

346 惣一

(罰が悪そうに)いやあ、参ったなあ。ミミのやつ、こんなに毒舌だったのか。あのころお前がねこで、助かったよ。初美とミミに毎日のようにお小言をもらっていたら、さすがのおれも、心が折れる。

347 ウメ/小5

あっははははははは!
(初美の方に向き直り)……ね、初美ちゃん。ピピが死んだとき、あなた、わたしに言ってくれたでしょう。〝ピピのこと悲しんでくれているのね、ありがとう〟って。ちゃんとわたしのことをわかってくれた。わたし、とってもうれしかったのよ。だからね、初美ちゃんのことも惣一さんのことも、もちろんピピのことも、わたしは大好き。

348 ナナコ/大人 N

ああ、ミミが、ミミがいってしまう。
ピピが、わたしの中からいなくなってしまったのと同じように。
わたしの知らない、どこか遠いところへ。
空蝉うつせみの肉体を抜け出したその先は、一体どんなところなんだろう?ミミは相変わらず菩薩さまのようにほほ笑んでいるけれど、自分の意識がどこか見知らぬ場所へいってしまうことが、怖くはないんだろうか?ピピだったころのことを忘れてしまったわたしには、やっぱりそれはどんな感覚かわからなくて、もどかしい。

349 ウメ/小5

惣一さん、初美ちゃん。わたしにあたたかな居場所をくれて、ありがとう。二人と暮らせて、わたししあわせだったわ。それから、ピピのかわいい生まれ変わりさん。あなたとも、会えてうれしかった。いつかまた、どこかで会えるといいわね。それじゃ、また。
……っ。(意識を失い、くずおれる)

350 初美

……。(ウメの体を抱き止める)

351 警官1

うわっ、ちょっと……!どうしたんですか!?
おいお前、すぐに救急車を!

352 警官2

はっ!

◆慌ただしく、救急車の手はずが整えられようとしている。惣一とナナコは、今まさに目の前で起こった別れの余韻に浸っている。フェードアウト。

***

353 ウメ/大人

ひさしぶりだね。

354 ナナコ/大人 N

そう言って笑うウメくんは、また目尻のしわがひとつ増えたような気がする。

355 ナナコ/大人

うん、ひさしぶり。

356 ナナコ/大人 N

ひさしぶり、とは言っても、わたしたちが会っていなかった期間なんて、せいぜい半年かそこらです。夏休みには双方の家族合同でキャンプに行ってバーベキューをしたし、新年には親族が一堂に会するのが定例となっています。でも、こうして二人きりで喫茶店に入ってゆっくり話をするのは、確かにひさしぶりかもしれません。
わたしたちはそれぞれ結婚して、家庭があります。ウメくんは大学で出会った〝みゆちゃん〟という年下の女性と結婚して三児の父となり、そしてわたしの相手はなんと、小学校でいっしょだったあのヒデヨシくんです。お母さんに似て神経の細いウメくんと違って、何事にも鈍感なわたしは、中学生になってやっと、自分がヒデヨシくんに淡い恋心を抱いていたことに気がついたのでした。むろん、小学生のころの連絡網を引っぱり出してヒデヨシくんの家に直談判するような勇気も、連絡の取れない相手を一途に思い続けるような甲斐性もわたしにあるはずがなく、わたしは人並みの数の恋をこなし、いくつかのお付き合いもしました。でも、同窓会で再会したときには、たまたま双方、恋人がいなかったのです。わたしたちはお酒を飲んで意気投合し、そこからはびっくりするくらいトントン拍子でした。
さらに驚かされるのは、わたしたちのあいだに生まれた子どもが、男女のふたごだったということです。わたしとウメくんの子ども時代を知る人は、口を揃えて、〝昔のナナコちゃんとウメハルくんに、そっくり〟と笑います。本当に笑ってしまうくらい、娘と息子はわたしとウメくんによく似ています。でも、誰かにそう言われるたびに、ヒデヨシくんは複雑そうな苦笑いを浮かべて、

357 ヒデヨシ/大人

自分の息子が元クラスメイトの、それも男に似てるって言われるのって、ナナコとウメハルがふたごの姉弟だからだってわかっていても、なんか、なんとも言えない気分だなあ。

358 ナナコ/大人 N

とぼやきます。でも、特に子いぬのような目元なんか、息子はヒデヨシくんにそっくりだと、わたしは思っています。
あのあと、お父さんは仕事があるので会社に戻り、お母さんとわたしの付き添いで病院に搬送されている最中に、ウメくんは意識を取り戻しました。予想はしていたことだったけれど、やっぱり目覚めたウメくんの中から、ミミはいなくなっていました。それだけではありません。すぐにはわからなかったけれど、ウメくんが次第に、自分がミミであったという事実さえ忘れていっていることに、わたしは気がつきました。
最初はあの一連の事件のことや、ミミが話したことぜんぶ、ウメくんはちゃんと覚えていたのです。ところがある日、いなくなってしまったミミのことを思い出して感傷に浸っていたわたしが、

359 ナナコ/小5

ミミが長いことずっとウメくんの中にいたのは、お母さんのことが気がかりだったからかもしれないね。

360 ナナコ/大人 N

としんみり言うと、

361 ウメ/小5

え、何。もしかしてミミのやつ、ぼくが気を失ってるあいだに、何か言ったの?

362 ナナコ/大人 N

とびっくりした顔をするのです。またしばらく経って、

363 ナナコ/小5

ねこなのにことりのうたが好きだなんて、ウメくんはねこだったころから変わり者だったんだね。

364 ナナコ/大人 N

とちょっとしたからかいのつもりで言うと、

365 ウメ/小5

ことりって、何の話。

366 ナナコ/大人 N

と怪訝そうな視線が投げ返される。そんな具合でした。
それはわたしには歯止めのきかないスピードで、着実に進行していきました。わたしの知る限り、ありとあらゆることを話して聞かせても、ミミだったころの記憶はどんどん薄れて、どうすることもできませんでした。
わたしもこうして知らず知らずのうちに、ピピだったころのことを忘れていったんだろうか。わたしたちがピピとミミだった事実が、わたし一人に錆のようにこびりついて離れなくて、だけどウメくんの中からは、その事実さえも失われてしまう。いちぢく屋さんで交わした会話もぜんぶ、きっとウメくんの中ではなかったことになってしまう。それってなんだか、すっごく、さみしい。取り残されたような気に、わたしは、なる。
いちぢく屋さんには、あの事件を境にぱったりと行かなくなり、あのうす暗い店舗もしばらくして建て壊され、わたしたちの今いる喫茶店が新しく開店しました。
三角の海がぴかりぴかりと笑っていたあの日、真っ赤な舌に吸い込まれて消えたイチジクのアイスクリームのように、ウメくんがかつてねこのミミだったという事実は、ウメくんの中から跡形もなく消えてしまいました。

***

367 ウメ/大人

今日は海がきれいだね。

368 ナナコ/大人

うん。ここがまだいちぢく屋さんだったころ、二人でよくおやつを食べにきたね。

369 ウメ/大人

(懐かしそうに笑って)水曜日のことだろ、よく覚えてるよ。手を繋いでさ、今思えばよくもまあ、飽きもせずに毎週毎週、通いつめていたもんだよなあ。何がそんなに、楽しかったんだか。

370 ナナコ/大人

……。ねえ、ウメくん。

371 ウメ/大人

うん?

372 ナナコ/大人

懐かしい話をしようか。もうずっと、昔の話なの。終わってしまった、ふたりのお話。だけどきっと今もどこかで、わたしたちを見守ってくれているふたりのお話。

373 ウメ/大人

(眉をひそめて)何、急に。

374 ナナコ/大人

……。(瞳を閉じ、微笑む)

375 ナナコ/大人 N

近ごろ、わたしは思うのです。いのちは燃える星で、ピピとミミは空にのぼって、どこまでも高く高くのぼって、この広い宇宙という名の集合体のどこかに、かえっていったんじゃないかって。この世に生まれてこなかった、わたしたちのもう一人の兄弟のように。そうして今でもお父さんとお母さんや、わたしとウメくんのことを、見守っているんじゃないかって、そう思うのです。お父さんとお母さんとウメくんとわたし、いつか家族四人で大合唱した、きらきら星のうたのように。生前話すことのできなかったぶんまで、ふたごのように寄り添い合って。もしかしたら、あの流星群の夜、星になったわたしたちのもう一人の兄弟も、どこかでいっしょにきらきら星をうたってくれていたかもしれません。
わたしは目を閉じて、そして小さく息をつく。これを言うには、ちょっと心の準備がいる。ウメくんもあのとき、こんな気持ちだったのかな。うす紅色とクリーム色のマーブル模様のアイスクリーム、まるでどこかの惑星みたいで、とてもきれいだった。

376 ナナコ/大人

わたしの前世はことりだったの。

◆ウメのアイスコーヒーのグラスの氷が、カランと音を立てる。

《終幕》